しかし、この大男は温厚な性格で、人前で暴れるようなことはありませんで
した。その証拠に当時は、おおらかな世代だったせいでもありますが警察
などに収監されることもなく、自由に風任せでアチコチで目撃情報があがっ
ていたそうです。大浴場を出たところで「かっくんちゃん」の勇姿の写真をみ
たあと風呂からあがって喉が渇いた客にお茶をサービスしてくれるお嬢さん
がいましたので”あなた「かっくんちゃん」て知っとんね”と訊ねました。あたし
ゃ、当然知っているという答えを期待していましたら、”いえ知りません”と、
いうじゃありませんか。あたしゃ、がっかりしながら、ことのいきさつを話しま
したら”ああ、ホームレスですね、下着も着けていない姿なら罰金ものでしょ
うが、目もみえんで年寄りだったら役所は介護の世話ばせにゃいかんとでし
ょ”と実も蓋もないような応答に”うんや、もうヨカ”といって、そそくさと部屋に
戻りました。いやあ、時代ですなあ。さて、話をすすめて参りましょう。本名は
市原角一(格市など諸説あり)。明治27年生まれで、兄さんが出征するとき
に”おっかしゃんはオレが面倒みるけん心配せんでヨカ”といって送り出し、
その言葉通りに母親の世話をしたという孝行息子であったといいます。両親
の躾が厳格だったとみえて、滅多に乗らない汽車に乗っても、二等車しか
乗らず、それも必ず立って乗っていたと書物には書いてありました。嫌な客
にも黙って従い、握り飯を砂地に放り投げられても黙々とほうばってリクエス
トされた曲を弾きながら大声で唄っていたといいます。小さい、こどもたちが
集まってくるのは、かっくんちゃんが客にもらったお握りを地べたに転がして
食べる様子をみたいからであり、また、かっくんちゃんのもうひとつの奇行で
ある、もらった銅貨をひょいと口にいれて飲み込んでしまうところがみたい
からであった。飲み込んだ銅貨は首の後の大きな瘤に溜めているのだとい
う噂をこどもたちは信じきっていたから魔法使いみたいな憧れのひとであっ
た。いつしか、大学の病院がその奇行と体形を知ることとなり、彼の死後、
解剖してその謎を解明する、そのため汽車賃などは大学の病院が負担す
るという噂が流れたそうですが、彼は滅多に公共の交通機関は利用しなか
ったといいます。それは自分の奇形や臭いを客に迷惑がられるということ
を知っていたという説があります。このようにひとびとに愛され可愛がられ
ていったのですが農薬のはいった握り飯を食べたために毒殺されたという
噂が流れながれる中、佐賀新聞には胃潰瘍で昭和27年に没し享年57歳
であることなどが書かれていたそうです。遺体は大学病院で解剖されること
もなく手厚く葬られたといいます。昔の佐賀んモンなら知らないひとは、いな
いといわれたこの御仁は悪友の話では佐賀の著名人のひとりとして広く佐賀
人の心の中に刻まれているそうです。しかしなんですなあ、昔はこのような大
らかなひとが、大らかな善意のひとに囲まれて過ごしたイイ時代だったんで
すなあ。合唱。
ハゼの名所に、要介護のひとが若いお嬢さんやそうでもない元お嬢さん
に連れられてハゼ見学をしてありました。要介護の方は皆、無表情で焦
点の定まらない目でハゼを眺めてありました。若いお嬢さんに”カメラの
シャッターを押してちょうだい”とお願いしたついでに、”どこからきたの、
何人ぐらい?”と訊ねましたら丁寧に答えてくれました。近所のケアハウ
スの方々だそうで天気の良い日などは気晴らしに遠出をするんだそうで
す。その日はお嬢さんたちにとってもストレス解消になるのではと思うぐら
い素晴らしい天気でした。 ケアハウス入所予備軍 ぐっさんハイ