今日は東京オリンピックで大活躍をされた河西さんのご登場です。河西さん
とお呼びしてピンと来る方は、それなりのお年の方とお見受けします。当人
の河西さんは対談者に”もう79になります。今年は70代最後の年です”。と
いってアハハと明るく笑ってありました。河西さんは昭和39年、白黒テレビの
画面をにらみながら日本中をハラハラドキドキさせて手に汗しながら熱狂させ
たご本人なんです。”全然おかわりなく、お若いですね、背の高さもおかわり
なく”とラジオからそんな不躾な声が聞こえてきました。そうなんです、いつも
の「深夜便」でのお話です。インタビュアーが”早速ですが、どうしてバレー
とご縁がおできになったのですか”と遠慮勝ちに聞いていました。”それが
ね大した理由じゃなかたんです。中学生のときだったんですが、たまたま
バレーを教えていた先生がハンサムじゃなかったんですけどイイ男でね。
ああこの先生と一緒にできるならバレーをやろうかと思っただけなんですよ
当時はモノがあまりない時代ですから、田舎の学校では白いボールで遊び
たかったものですから朝早く学校に行ってボールを確保してたんですよ。
そんな田舎の学校ですから、大会でも大した成績は残していませんでした。
ところが、あるとき県外で大会があり、初めて県外の試合に出られるという
ので喜んで栃木まで行ったんです。試合は2回戦で負けたのですが、その
とき、たまたま日紡足利 の工場長が試合をご覧になっていて”オイあの背の
高い子を採ったらどうだ”ということになってその工場の職員として採用され
たんです。当時、日紡は全国的に強豪チームでしたから全国各地からスタ
ー選手が集まっていたんです。私は手も足もでない補欠というか球拾いの
連続でした。でも私は、これはダメだとは思わなかった。こんなすごい選手
が間近かにいて、お手本が手の届くところに一杯ある。これをモノにしない
手はないって。それからですよ、本格的にバレーをやろうと思ったのは。し
かし中々うまくなれない、もうやめて(故郷に)帰ろうかなと思ったときにブラ
ジルで世界大会があると聞きました。ブラジルですよ。わあ、外国に行ける
それもブラジルだって思い直して頑張ったんです。一生懸命やったお陰で
その遠征についていけた。そうしてソ連についで2位になった。2年後の、
モスクワ大会では1位になった。それからですよ。ソ連との宿命の対決は。
でも追われるようになったら、不安で仕方がない。ですからいくらやっても
満足できなくなった”。対談者”そこから寝る時間を惜しんで特訓がはじま
った”。”いえ、そんな格好いい話じゃなくて、ひとつは時差対策でもあった
んですよ。海外遠征では時差がつきものでしょ。眠くて仕方がない。ですか
ら4時間ぐらいを深い睡眠をとるんです。慣れたら平気になります。人間の
身体ってよくできてますよ。鍛えたらどうにでもなる。”で、あの有名な大松
監督との出会いは”と対談者。”大松先生は当時、日紡貝塚にいらしたんで
す。ですから貝塚の方に移らされたんです。対談者”ではそれから「鬼の大
松」といわれた監督さんに鍛えられたんですね”。河西:”ええそうなんです。
でもね、世間では鬼の大松なんていわれていましたが、そりゃ練習は厳しか
ったですよ。でもね。一端コートを出たらフツーの方でしたよ。寡黙で今の男
のようにペラペラしゃべらなかった。余計なことはいわれなかった。でもボー
ルを一端、握ったら鬼のようにボールを私たちにぶっつけました。当時は今
のようにコーチとかいませんでしたし先生は置こうとしなかった。そうして我々
一人ひとりと向き合ってくれた。我々は先生のしごきは、すぐ終わります。で
も十何人もの選手を相手にボールをぶっつけ選手も”まだ!”といって食ら
い付いていくんです。そんな姿に私たちは付いていきました。今のようなコ
ーチ任せで偉そうにいったら”じゃ、あんたがやってみなさいよ”で終わりでし
ょ。選手も大変でしたが、先生は我々以上に大変でした。私たちも今のよう
にバレー部という特別な扱いではなくて、職員がたまたまバレーをやっている
という環境でした。遠征に行くことが多かったから、大した仕事はできません
でしたが、それでも午前中はちゃんと仕事をして午後、食事をとったあとは
すこし休息をいただいて夕方4時ごろから深夜1時、2時までバレーの練習
なんです。宿舎も今と違って一般職員扱いですから深夜こっそり自分の部屋
に戻るんですが、昼間、洗濯とか掃除ができないだろうと、みなさんがアイロ
ン掛けをしてくれたり、いろいろ手伝っていただきました。冬なんか疲れて帰
ってきてお風呂にはいるんですが部屋からお風呂までの往復が遠いんです。
ですから身体が冷えてしまって、、。そんなときに湯たんぽを布団の中にいれ
ていただいたり、、とっても気を遣っていただきました。みんな気を遣ってなん
にもいわず黙って後押しをしてくれたんです。”では宿敵、ソ連との死闘を演じ
た昭和33年のもようをお聞かせください。”当時は今のようにサーブをして相
手がミスをしたら得点になるんじゃなくてサーブ権がコッチにくるという方式で
したからラリーが続きました。確か6回ぐらいだったと思います。3セット目も
試合を優位に進めたましたが、14対9のマッチポイントを握った場面から、
ソ連の粘りが続いた。試合を中継した鈴木文弥アナが”金メダルポイント!”
のセリフを6度も繰り返す球史に残る名勝負を演じました。最後はソ連の選
手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した日本中が歓喜の
渦に沸いた一瞬でしたね。あら、最後の方は老兵がしゃしゃり出てしまいま
したが河西さんは”今でこそママさんバレーが当たり前のようになっています
が当時は女が外でバレーをやるっていわれて大変な時代でしたわよ、でも
ね、あの試合がきっかけとなって女性が外に大ピラに出られるようになった
といわれてうれしいです”と一段とオクターブが跳ね上がったところでおしま
いにいたしましょう。
長文でお疲れさまでした でも河西さんの熱弁を最後まで
お伝えしたかったので長くなってしまい申し訳ありませんで
した 東京オリンピック誘致大賛成 ぐっさんハイ