野村名誉監督に”言い訳の解説をさせたら日本一”と揶揄されていた栗山
氏が日ハムの監督に就任。ハンカチ王子こと斉藤投手はプロ入り2年目で
自身初の開幕投手に選出され、3月30日の開幕戦(埼玉西武ライオンズ戦)
にて9回1失点で初の完投勝利を挙げた。プロ野球の開幕戦で初完投勝利
を記録したのは50年ぶりの快挙を果たした。一方、日ハムの4番バッターと
して起用し続けている中田選手は打率0.172本塁打3打点13と低迷して
います(5月17日現在)。なかなかウリのホームランが出なかった中田選手

が待望の1号をかっ飛ばしたときには栗山監督の目にはうっすらと涙が光っ
ていました。投打の人気選手を看板に戦い続ける栗山監督には野村楽天
名誉監督との間には嫁姑のような固執をみた思いがしました。栗山監督は
ヤクルトの入団テストを受けて、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外
入団が決まった。1年目の84年には遊撃手として一軍デビューを果たすも、
プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け野球を辞めることばかり考え
ていたという。それでも生き残りをかけ2年目からは、俊足を生かしたスイッチ

ヒッター、外野手への転向を試みる。二軍での猛練習が功を奏し、3年目の
後半には1番中堅手のレギュラー定着、規定打席不足ながら打率.301を
マークする。5年目の88年は肉離れの影響で開幕2か月を棒に振ったもの
の、前年の猛練習の成果もあって1番中堅手に定着し、規定打席にやや不
足ながら打率.331を記録しヤクルトの4位浮上へ貢献した。6年目には主
に2番中堅手で開幕からレギュラーに定着。初の規定打席を記録し、打率
.255に終わったものの犠打40を記録、守備範囲の広さを評価されてゴール

デングラブ賞を獲得した。90年に野村克也が監督就任すると、当時無名だ
った柳田浩一の中堅手抜擢により再びレギュラーの座を追われた。さらに
右肘の故障やメニエール病再発の不安から現役を引退した。あるHPをパク
りましたが、ブン屋のひとりが次のようなことを口にしていました。”スポーツ
記者になった90年の秋、私には忘れられない苦い記憶がある。野村克也
がヤクルトの監督に就任した1年目のシーズンが終わりに近付いた頃、監督
からほとんど使われることのなかった、ある人気選手が引退するという情報

を聞いた。自宅に向かうとその選手はあっさりその事実を認め、ユニフォー
ムを畳む写真まで撮らせてくれた。そこまで取材しながら球団の、まだどの
新聞社にも漏れていないから、という言葉を鵜呑みにして記事にするのを待
った翌日、ライバルのスポーツ紙に一面で大きく報じられていた”。あれから
21年間。栗山秀樹の名前は毎年オフになると監督、コーチときにはGM候補
として紙面を飾った。だが実現することなく、私のほうが新聞記者をやめていた
真新しいユニフォームをきた新監督は復帰まで、どうしてこんなに時間を要し
たのかは次にいたしましょう。
   ”とりわけ 女性に対しての興味を持つ選手に いい選手に成長
   していくやつが多い”  (野村克也)      代読ぐっさんハイ