私がガキのころ年に一度、定期的に家に来ては神棚、近くに置いてあった
くすり箱を調べて使った分を補充していくという商売がありました。国民保険
制度がなかったころの庶民の健康維持の有力な手段でありました。1955年
ごろは国民の三分の一が無保険で、そのころは風邪や腹痛で医者にかかろ
うなんて、ついぞ思いませんでした。「富山の売薬さん」として戦後57年間、
栃木や福島の田舎を廻った本多さんは当時のことを”そりゃあ昭和30年代
までは日本は貧しかった。特に田舎はひどかった。私が懸け場所(営業エリ
ア)にしていた一帯で、農家は米と麦、それにタバコをつくっていたくらい。
タバコの葉っぱを1反歩(300坪)、売ったってせいぜい1万5千円から2万
円。農地解放されたといっても年間の現金収入は10万円。よくて20万しか
なかった”。本多さんが配置薬の営業で歩いた農村地帯で’10年の春に引
退するまで彼は3000軒もの得意先を廻っていた。だが彼は得意先の数を
誇ったりはしない。頭のなかにあるのは、あのころの人々の苦しい生活だ。
昭和30年代はじめのある朝のこと。得意先へ急いでいたら田んぼのあぜ
道で野良着を着た夫婦とすれ違った。夫婦の家にもくすり箱を置いていた。
”本多さん悪いねタバコがとれるまで金はねえんだ、すくないが内金だけ置
いていたから”夫婦はとても急いでいた。夫はびっしょり汗をかき、顔は汗と
涙でしわくちゃになっていた。妻は顔を下げたまま決してあげようとしない。
”じゃ”、軽く頭をさげるとふたりはあぜ道を歩いていった。すれ違った本多
は農夫の家に行った。”家の入り口は開けっ放しだった。もっとも泥棒がは
いるような家じゃないんだ。とるものは何もない。ばあさんが中から出てきて
内金の100円を渡してくれた。支払いには遠く及ばない。金がないのは知っ
てるから納得して帰ろうとした。するとばあさんがいうんだ。昨日、赤ん坊を
亡くしたと、、。田んぼの脇にあった柿木に赤ん坊をつないで、夫婦は一生
懸命働いていたそうだ。だが太陽は動く。日陰は日なたに変わる。おとうや
おかあは懸命に働いているから赤ん坊に陽が差したことに気つかない。今
でいう熱中症ですよ。あわてて家の中に運んでふとんに寝かせたがすでに
力尽きていて息をしていなかった。泣くに泣けない話ですよ。それでも夫婦は
次の日から野良にでなきゃならん。金がないからさ、払えないからさ。医者を
呼ぶときゃ死ぬときだけですよ。もうダメだって時になったら農家の主人は
馬を引いて峠を越えて医者を連れてくる。それで脈をとってもらってまた馬
に乗せて送っていく。だってお金がないんだもの、野菜か米をもたせるぐらい
しかできない”。これはある雑誌からパクッたものですが、このように富山の
くすり売りをはじめ各種の行商に携わったひとたちは全国津々浦々を歩いて
庶民の健康維持や情報の伝達の役割を果たしながら人情話にどっぷりとつ
かっていたんですなあ。手厚い支援に包まれた現代を昔のひとは、どう思う
んでしょうかね。
自立って 気持ちが負けないってことなんだなあ ぐっさんハイ