先日、東北地方の悲惨な災害状況の生々しいレポートをお届けしましたが
現地をご自身の目でご覧になった方から”ウチのほうで7月25日(月)、「
川まつり」があるから来ないか”というお誘いがあり、花火大会の誘い文句
に惹かれてお邪魔いたしました。どうせなら週末にでもあればよいのにと思
いながら長崎の諫早市に向かいました。諫早といえば体操界のエース内村
航平選手の出身地でもありますね。ひと息ついてイベント会場である宿泊
のホテルの屋上に行きましたら、浴衣姿のお嬢さんたちが、にこやかに迎え
てくれました。イベントを仕掛ける場所に目をやりました。まだ明るかったの
で準備をしているひとの姿が大勢見受けられました。特製のお弁当をパクつ
きながら冷えたビールで喉を潤し時間になるのを待っていました。我々の隣り
の席に数人みえて”あんたたちはどこから来たとかない”と、親しげに話かけ
られましたので”はい、博多からお邪魔しました”と応えましたら”ほう博多
から、、そんなら今日の催事ごとは知らんとな?(知らない?)”といわれまし
たので”知りません”といいましたら”そうね、もう53、4年前になっとじゃが、
大水害があってね600人以上が死んだとですたい、その日が7月の25日
じゃったけん、毎年この時期にあわせて、これからあんたたちもみてもらう
行事があっとですたい”といわれ、なぜ月曜に、という疑問は吹っ飛んでし
まいました。親切な方のお話を伺っている間に暗くなって、フト仕掛けられた
方角をみましたら、なんと河原に無数のローソクの灯火が蛍火のように、
幻想的に輝いておりました。遠くにもローソクの灯で輝いた光の川があり
ました。つまり、このイベントは「昭和32年7月25日諫早地方を襲った記録
的な集中豪雨のため、本明川をはじめ付近の諸川はほとんど氾濫し、上流
では山津波がいたるところで起こり、土石流は多くの田畑を岩石で埋めつく
し一瞬にして多くの住居と人々をのみこみ、下流では大洪水をもたらす
未曾有の惨状となり、そしてこの災害の結果、死者・行方不明630人もの
犠牲者がでました。諫早市民が死の恐怖にさらされた運命の日から丁度
1年後、市内は弔旗を掲げ、水魔の犠牲となった犠牲者の御魂安らかれ
と全市民が祈りをささげ追悼の1日を送りました。 この日は、災禍の中心と
なった眼鏡橋上で一周年追悼会を開きました。当時、眼鏡橋の周辺は護
岸がえぐり取られて足場が悪く、このような場所に多数の市民を集めること
は安全が保障できないと関係機関から強い反対を受けましたが、一周年
追悼会だけは思い出深い眼鏡橋上で開きたいという強い希望があり、その
希望が実って開催の運びとなりました。定刻とともに250個の裸電球で飾ら
れた眼鏡橋が夜空に浮び、付近一帯には当時の青年協議会の手によって
2,000個の万灯が灯されました。両岸を埋めた1万5千人の観衆からは、
せきとし て声なく一瞬、諫早市全体から音が消えたのではないかと思わせ
るほどの静寂さであったといわれています。 この一周年追悼会の開催が
発端となって追悼川まつりとなり、現在では毎年7月25日に決まって開く「
諫早万灯川まつり」となりました」。またHPの助けを借りながら知ったかぶり
をしてしまいましたが、こんなイベントが50数年にわたって地方都市・諫早
でしめやかに、ひっそりと行われているというお話でありました。いつまでも
ご遺族を忘れない心温まる催事に感激しながら帰途に着きました。
   
   HPにはまるでモデルのようなお嬢さんが微笑んでいました(ちょっと!
   諫早には美形がいなかったということなのね!)、いえ、そうじゃなくて
   、、たまたま、、(フン!白々しいったらありゃしない!)。 ぐっさんハイ