また「深夜便」のお世話になりました。ガキのころ、親父がよく口にしていた、
歌手「ディック・ミネ」が唄っていました。主に戦前活躍した歌い手で、演奏者
からムービーの世界にも移ったり、活躍の場も日本から当時の朝鮮、それに
中国は上海などでも活躍した当時、飛んでいるひとだったそうです。戦前の
スーパースターだったそうです。私は実際に歌を聞いたことはありませんが
波乱万丈の人生をテレビでみたり聞いたりした程度でしか知りません。が、
なんといっても、芸能人広しといえども、この方ぐらい巨砲の持ち主はいなか
ったという伝説のひとだという印象が頭の隅から消えません。なにしろ風呂に
はいったら”ドボン、ドボン、ドボン”と3回、水しぶきとともに音がした、という
ほどの一物の持ち主だったようで、女性にモテ、モテだったそうです。事実、
オンナをとっかえひっかえして、切ったオンナは5万人というのは、すこしオー
バーですが、試し切りにあって所帯をもった女性は4人。こどもにも10人の
子宝にめぐまれたハッピーな御仁でもあるそうです。しかしながら生まれた時
代が悪く、ディック・ミネという芸名が敵性名前というわけで「三根耕一」という
すぐ忘れてしまいそうな平凡な名前で唄うことを余儀なくされたこともあったそ
うです。三根さんだけでなく、昭和15年、当時の内務省から、カタカナ名前や
皇室に失礼に当たる芸名は改名を指示されミス・コロムビアや笠置シズ子、
あきれたぼういず、藤原釜足らとともにディック・ミネもその対象となり、やむ
なく再度「三根耕一」と改名したという時代に翻弄された方でもあります。父上
は東京帝国大学卒の厳格な教育者。お母上は日光東照宮の宮司の娘という
血統書付きの家柄で、幼少期から音楽好きだった母親の所有していた西洋
音楽のレコードに興味を持ったそうです。家柄が良すぎると出来の悪いガキ
が生まれる、なんてえことではありませんが、自分流の人生がまだまだ続き
ます。というところで一休みしましょう。コンプレックス一杯で、ああ疲れた。
                 ドボン、ドボンとしか音のしない ぐっさんハイ
おまけ:年相応に衰えはあるにせよ、こうして生きて「普通」の生活ができる。
 新聞を読み、外を歩き自然の移り変わりに感動できることはありがたいこと 
 だ。昨年は猛暑に弱り果て、私の人生も終わりかと半ばあきらめていたが、   
 まだまだ、この世に用事があるのか生き返った。今は最後の仕事として老人
 福祉施設の健康アドバイザーを引き受けて、お年寄りの相談に乗っている。
 私自身高められ慰められることもある。最近はできるだけ催し物に出掛ける
 ことを心掛けている。食事会などでおしゃべりをし、趣味の句会などにも参加
 して、下手さ加減にも落胆しながら発奮している毎日だ。病気になっても病人
 にならず、老いても老人にならず、今年もその気持ちを大切にして生きたい。
 (兵庫県 釜江女史(87))