最新のAIは劇的に進化しているらしい。
しかし!
元々、正解があって、いかにそれに近づけるかというプログラムで機能しているので。
もう東大生は、いらないのかも知れない。
今までの日本人はアメリカや親会社にNOが言えず常に判断を委ねている。
しかし日本も右傾化している。
否定的な感情に背中を押されて自己主張するようになっている。
戦後の日本人は、自虐的に自己批判ばかりしていたけど、今では自分をほめたがっている。
ここでも価値観は逆転している。
そして長島茂男の自分をほめて成功する姿に自分のあるべき姿を見て[プラス思考]という価値観が生まれている。
日本人は戦後、自己嫌悪に陥って自分を責め続けた。
しかし!やがてその反動から長島茂男の自己陶酔している姿に意味を感じ始めて、自己肯定感の強い長島茂男を作り出して、長嶋茂雄も、それを感じて、新しい長嶋茂雄を演じている。
スパルタから選手を褒める、モデルチェンジした長島茂男は、日本人の創造的な理解力から生まれている。
『長嶋茂雄物語』は初版から二版・三版と増版しているうちに、すっかり内容まで変わってしまった。
そして長嶋茂雄は、最新の長嶋茂雄を演じている。
最新の長嶋茂雄が、最良の長嶋茂雄かも知れない。
セザンヌやルノアールの絵は教会で飾るには、ふさわしくなく、需要もなく無視されていた絵が、裕福な資産家が増えて個人の需要が生まれて高価で取引をされるようになっている。
絵の購入者が変化して、セザンヌやルノアールは評価されている。
絵を買う購入者が、教会から、個人の資産家に変わって、絵の価値観も変化している。
それは長島茂男の様に、その時代によって批判されたり評価されたりしている。
戦後のドイツも日本も、挫折感から夢を見るしかない、そんな時代に多くの価値を創造している。
日本の数学教育は計算をして答えしか見ていない。
そして日本では数式を公式と教えるけど、その考え方も、答えも、数学者が創作したもので、私的な意見に過ぎない。
[私的な意見]に意味があるのかも知れない。
江戸時代、庶民が微分積分のような高等数学を解いていたらしい。
江戸時代の日本人の方が、はるかに賢くて、今日の大学生でそんな数学を理解している学生が何人いるんだろう?
ただ江戸時代にはテストはなく、趣味人の決定的な違いは問題作りから始めているので意味が分からないということは有り得ない。
それに答えも創作するという考え方で数学に接していたのかも知れない。
個人的な意見だったのかも知れない。
数学者は自分で問題も作って、答えも自分で作っていたので、他人の考えた数式の意味を理解しようと苦労している訳ではないのかも知れない。
数学を理解する方法は、江戸時代のように、問題も、答えも、自作するしかないのかも知れない。
他人の考えた数式だから意味が分からないのかも知れない。
「問題も答えも、自分で作れば良い。」それが数式を理解する方法かも知れない。
学習する数学は、オリジナルな数学で、そして変化する数学でテストに馴染まない。
計算の速さと正確さは、コンピューターに丸投げすれば良い。
AIの数学は、計算だけの数学で、そして数式は[公式化]していくのかも知れない。
しかし人が学ぶ数学は、教科書に個人の考えを積み重ねて、二版・三版と増版され、二次利用・三次利用されていくうちに、答えまで変化する数学で。
しかし!
それが使える数学かも知れない。
やがて!
答えまで変化する数学に抵抗感はなくなって。
自作する数学が、最新の数学で、それが最良の数学で。
公式という概念もなくなって。
AIとは反対方向に進化していくのかも知れない。