ありふれた言葉でも、検索すると具体的な表記を目にして「そうか!」と連想が働く。
ふだん適当に使っているのでピントがぼけて、連想が働かず、そこで途切れてしまう。
ものを考えない人を見てると話が途切れてしまう。その先に続かない。
「なぜ自分で判断しないんだろう?」
「自分で決めないと損をするだけじゃない。」
ネットで映画の解説をしている動画を期待しながら見て、がっかりさせられるのは、むしろ客観的な批評で。
それよりも個人のネガティブな体験やポジティブな体験から増幅され、すっかり違う映画になってしまった解説の方が面白い。
小津安二郎の『東京物語』は、ありふれた日常生活を描いているだけなのに、多くの人は、すっかり感情移入して見ている。
『東京物語』の、なにが、そうさせるんだろう?」
ピカソの抽象画は見てる人の中で芸術になっている。
抽象画と、それを芸術と感じる人の、どちらが才能なんだろう?
多くの人は芸術と感じても絵は描けない。しかし!ピカソの絵は壊れている。
「どちらが才能なんだろう?」
クロスワードパズルの□□□□を言葉で埋めていく作業は、苦痛ではなく楽しい。
「そうか!」と気付く瞬間!
アドレナリンが分泌するのかも知れない。
学生が「チャットGPT」を使ってレポートを書くことが問題視されている。
だけど!
学者にとって、学問とは関係ない学者の個人的な事情や負の感情は苦痛でしかない。
しかし、そんな苦痛から「そうか!」と気付く瞬間、アドレナリンが分泌して、より快感が増している。
ピカソのように絵が書けなくても、ピカソの抽象画を見て芸術と感じる人は多い。
学者の持論には「どういうこと?」というネガティブな疑問から「なるほど!」と気付く瞬間のポジティブな感情に溢れて、シンクロしやすく、分かりやすく、刺激を受ける生徒は多数いるはず。
学者の持論は感情によって増幅され、誇張されている。
ネットで映画の解説をしている動画を期待しながら見て、がっかりさせられるのは、むしろ客観的な批評で。
学生が「チャットGPT」を使ってレポートを書くことが問題視されているけど「チャットGPT」は模範解答を即答することはできても「なるほど!」という気付きもなければ、アドレナリンの分泌はないので、学生は客観的な意見よりも、感情によって増幅され、誇張されている、そんな様子を書けば「これは生徒の意見だな。」と、ちゃんと評価してもらえるのかも知れない。
小津安二郎の『東京物語』は、ありふれた日常生活を描いているだけなのに、多くの人は、すっかり感情移入して見ている。
『東京物語』を見て何も感じない人はいない。
[答え]はないけど何かを空想させる。
これから「チャットGPT」は模範解答を即答する方向で進化して、それとは反対に、学生は評価を得るためにも感情によって増幅され、誇張されて、ホップ・ステップと何かを連想させる文章を書くようになっていくのかも知れない。