才能は限界を超えている 2 | エイジのブログ

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YouTubeで『エルビス』の映画観賞後の感想をupした動画を見てると、映画のストーリーをなぞっただけのものが多く、独自の体験を重ね合わせたものが少ないのは、極端な体験が少ないからかも知れない。

そんな波風の立たない無難な人生は幸せなことだけど。

 

やはり映画の解説は、見る人の幸せな思い出や忘れたい体験によって増幅された解説の方が面白い。

 

日本の教育も、模範解答を即答することでしか高得点はもらえない。

 

何も付け足してはイケナイ。

何も削り落としてはイケナイ。

 

偏差値大学に合格するためには、違う見方や、違う考え方をする受験生は正解からは遠のいていくので欠点でしかない。

 

しかし!

映画は、どうしても自分の体験を重ね合わせて見てしまう。

 

小津安二郎の映画は平凡な日常生活だけど、映画を見てる人は懐かしい思い出が蘇ってくる。

 

「余韻に浸る」で検索すると。

 

(1)音が鳴った後に残る響きを味わうことを意味する表現。 (2)ある物事が終了した後に残る余情を味わうことを意味する表現。

 

小津安二郎の映画は、多くの余韻を残している。

 

その点、偏差値型の優等生の模範解答はコピーしただけで面白くはなく。

 

正解を即答するためには。

 

何も付け足してはイケナイ。

何も削り落としてはイケナイ。

 

そうではなく!

日本人は「あぁ本音は、そっちか」と、ついつい想像してしまう。

 

そんな日本人の、なんとなく[感じる力]は、欧米人を超えている。

 

外国では群集心理は感情的で破壊的なカオスだけど、日本人の群集心理はラグビーのWカップのように、一体感があって、統率のとれた[正のエネルギー]が生まれている。

 

そして俳句は「古池」や「蛙」のように言葉の意味を超えた空想も、ちゃんと伝わっていく。

 

『フランダースの犬』のネロは、外国では負け犬でしかないのに、日本人は死んでいくネロの感情移入している。

 

日本では同情してもらえる。

 

ベートーベンは挫折感の中にいて。

 

ベートーベンは美をイメージすることで、やっと精神のバランスがとれているのかも知れない。

 

日本人の場合、ネロやベートーヴェンの不幸という[負の思考力]は、同情心という[正の思考力]を導きだしている。

 

日本人特有のバランス感覚があって。

 

護送船団方式のように、足の遅い船に合わせている。

 

感情は仲間とシンクロしている。

 

自分の意見よりも、場の空気を読む方を優先させている。

 

常識や科学をブレイクスルーして限界を超えていく才能は少数いれば十分で、大部分は常識人の方が社会のバランスが取れ、管理社会が機能するので好ましい。

 

日本人は周囲の空気を何となく感じて、それに従っている。

 

耳の聞こえない、音の無い世界にいるベートーヴェンの美は楽器の音色を超えている。

 

ベートーヴェンは[無]の世界にいても[美]をイメージできることで、かろうじて彼の自尊心は救われている。

 

「ベートーヴェンは耳が聞こえないんだぁ。」と感情移入すると気持ちはシンクロしてくる。

 

そして日本人は、死んでいくネロに同情している。

 

日本人は、他人の[負の感情]に同情する[正の感情]に満ちている。

 

常識人は、常識をブレイクスルーしていくイノベーション能力に欠けているけど。

 

日本人は、流れに流されながら限界を超えていくのかもしれない。