小津安二郎 5 | エイジのブログ

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小津安二郎の映画には答えはなく。

 

時間がゆっくりと過ぎていく。

 

古くなっても価値を失うことはなく。

 

もう一度、時をリセットすることで、龍安寺の石庭のように、それぞれが自分の[答え]を感じる映画なのかも知れない。

 

日本人は科学者というよりエッセイストで、考える力というよりも[感じる力]が優れているのかも知れない。

一本足打法は、話を最初から組み立て直すことで、古い知識からでも新しい[ひらめき]を得ている。

 

リセットして気付いている。

 

[ひらめき]は突然の変化で。

 

そもそも[ひらめき]の正体は、科学ではなく、イレギュラーバウンドかも知れない。

 

「最初は漫画チックな空想の方が、連想が働くんじゃないの。」

 

思考の入り口は『東京物語』を見るように、ゆっくりと、振り返ると良いのかも知れない。

 

俳句は何度も何度も推敲を重ねて詠んでいると伝言ゲームのように変化して「そうだ!」「これが良い。」と偶然!見つけることができる。

 

日本語は[あいまい]だけど、何度も繰り返していると、フッと[ひらめき]を得ることができる言語で。

 

というか!

[ひらめき]は、それを見聞きする人の中で連想が働いて、変化する現象なのかも知れない。

 

そして日本の文化は余白や間(ま)が多く「うん?」「なに?」と空想を誘う。

 

日本語の文法は英語のように結論が無くても良く「自由に想像して。」という表現も可能で、どんどん変化していく。

 

思考の初期段階に適応力を見せている。

 

東大出の専門用語を羅列した話が気になる。簡単な説明で納得している。「理解が浅いんじゃないの?」

 

そこから変化することもなく[ひらめき]を得ることもない。

 

たしかに模範解答にピントを合わせる子は「賢い子」と褒めてもらえる。

 

そして!

思考の出口は科学でないと意味がないけど。

 

しかし!

思考の入り口は漫画チックな空想で良いんじゃないの。

 

ただ!

漫画チックな空想は科学ではなく、答えまで行きつけない。

 

一本足打法も行き詰ってしまった。

 

しかし!

龍安寺の石庭は答えを求めてはいない。

 

考え続けることを求めている。

 

ルイス・キャロルも空想の途中なのかも知れない。

 

そして!

子供達はルイス・キャロルの空想の続きを楽しみにしている。

 

子供たちはナンセンスな物語を読んで「無理!」「分からない?」とは感じていない。

 

そんなところにも!

ルイス・キャロルの数学者として話を組み立てるイメージ力があるのかも知れない。

 

それなら日本の文化は、殆どが空想の途中で。

 

日本人は科学者というよりエッセイストで、考える力というよりも[感じる力]が優れているのかも知れない。

 

日本の偏差値大学はイノベーションで先進国中最下位に沈んでいるけど。

 

そもそも日本人は、思考の出口ではなく、思考の入り口に向いているのかも知れない。