小津安二郎の映画には答えはなく。
時間がゆっくりと過ぎていく。
古くなっても価値を失うことはなく。
もう一度、時をリセットすることで、龍安寺の石庭のように、それぞれが自分の[答え]を感じる映画なのかも知れない。
日本人は科学者というよりエッセイストで、考える力というよりも[感じる力]が優れているのかも知れない。
一本足打法は、話を最初から組み立て直すことで、古い知識からでも新しい[ひらめき]を得ている。
リセットして気付いている。
[ひらめき]は突然の変化で。
そもそも[ひらめき]の正体は、科学ではなく、イレギュラーバウンドかも知れない。
「最初は漫画チックな空想の方が、連想が働くんじゃないの。」
思考の入り口は『東京物語』を見るように、ゆっくりと、振り返ると良いのかも知れない。
俳句は何度も何度も推敲を重ねて詠んでいると伝言ゲームのように変化して「そうだ!」「これが良い。」と偶然!見つけることができる。
日本語は[あいまい]だけど、何度も繰り返していると、フッと[ひらめき]を得ることができる言語で。
というか!
[ひらめき]は、それを見聞きする人の中で連想が働いて、変化する現象なのかも知れない。
そして日本の文化は余白や間(ま)が多く「うん?」「なに?」と空想を誘う。
日本語の文法は英語のように結論が無くても良く「自由に想像して。」という表現も可能で、どんどん変化していく。
思考の初期段階に適応力を見せている。
東大出の専門用語を羅列した話が気になる。簡単な説明で納得している。「理解が浅いんじゃないの?」
そこから変化することもなく[ひらめき]を得ることもない。
たしかに模範解答にピントを合わせる子は「賢い子」と褒めてもらえる。
そして!
思考の出口は科学でないと意味がないけど。
しかし!
思考の入り口は漫画チックな空想で良いんじゃないの。
ただ!
漫画チックな空想は科学ではなく、答えまで行きつけない。
一本足打法も行き詰ってしまった。
しかし!
龍安寺の石庭は答えを求めてはいない。
考え続けることを求めている。
ルイス・キャロルも空想の途中なのかも知れない。
そして!
子供達はルイス・キャロルの空想の続きを楽しみにしている。
子供たちはナンセンスな物語を読んで「無理!」「分からない?」とは感じていない。
そんなところにも!
ルイス・キャロルの数学者として話を組み立てるイメージ力があるのかも知れない。
それなら日本の文化は、殆どが空想の途中で。
日本人は科学者というよりエッセイストで、考える力というよりも[感じる力]が優れているのかも知れない。
日本の偏差値大学はイノベーションで先進国中最下位に沈んでいるけど。
そもそも日本人は、思考の出口ではなく、思考の入り口に向いているのかも知れない。