自閉症児の中に理数系で才能を発揮する子がいるという。
自閉症児は、自分の殻に閉じこもっているけど。
もしも!
自閉症児に可能性を感じる医師がいると、それは才能として表れてくる。
しかし!
可能性を感じないと、そこにいるのは学習障害児でしかない。
自閉症児に可能性を感じるのは、一人一人の患者を個別に診察する医師の視点が必要で、やはり多数の生徒を指導する教師では無理なのかもしれない。
偏差値のように序列化すると自閉症の子は学習障害児でしかなく。
優劣という価値観では理解できない。
それはイノベーション能力にも言えて、行き詰ると何度もリセットする否定的な視点が必要になって、記憶力という“ものさし”で測ると、リセットする時の否定的な考え方はマイナス点しか付かない。
イノベーション能力には新しい視点とリセットという否定が必要で、新しい発想には評価基準がなく「それらを、どうやってテストをするんだ?」
まして記憶力という“ものさし”ではマイナス点しか付けようがなく。
記憶力という“ものさし”ではイノベーション能力は育たない。
むしろ!
科学ではなくSFとして接する方が良いのかも知れない。
SFは点数の付けようがない。
「見極める」で検索すると。
徹底的によく見て知る。
最後まで見届ける。確認する。
物事の奥底をきわめる。
才能を見極めるためには。
マラソンの金メダリストは100mでは速くないように、才能は偏りで欠点も目立ってくる。
長所と欠点はワンセットで、総合点を付けるとプラス・マイナス=0点になってしまう。
見極めるためには、病人を見る医師の視点が必要で、もっと欠点に注目する必要があって。
やはり評価に馴染まない。
6・3・3制で区切ってペーパーテストで評価するやり方が根本的に間違っているんじゃないの。
イノベーションに必要な才能が、落ちこぼれている。
なによりもイノベーションには、一億人以上の人口がいて、それくらいのマーケットもあって、そして関連産業も揃ってイノベーションは可能で。
日本は、かろうじて必要条件を満たしている。
しかし他の先進国のように5000万人規模の国ではイノベーションは無理なのかもしれない。
そんな日本には大勢の優秀な常識人がいるので、後は少数のピカソのような壊れた才能を育てればバランスが取れるのかも知れない。
しかし!
それが、できていない。
ペーパーテストでは、ピカソは落ちこぼれてしまう。
才能は壊れている。
日本人は一億人もいるんだから、ピカソのような壊れた才能は、一人くらいいるんじゃないの。
「東大はピカソのような才能を育てたことがあるの?」
「あんな規模に、なんの意味があるんだ。」
欠点に注目することもなく、規格外で、少数の才能を育てることができてない。
ペーパーテストで失敗している。
ペーパーテストは才能を見い出すためではなく、落とすために、やっている。
そうではなく!
日本人の欠点・欠陥も役に立って、捨てるものは無いのかも知れない。
東大は、常識からブレイクスルーしていく能力を失っている。