日本人の[公]と[私] | エイジのブログ

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群れる動物は一匹が警戒音を発すると「何があったんだ?」と考える余裕などなく、群れは一瞬で巣穴に逃げ込んでしまう。

 

周囲に影響されやすい習性は自己防衛本能として機能している。

 

感情は一瞬で伝わって。

 

同情心は嬉しいとか悲しいという感情を共有することで、群れる動物にみられる習性で、ネコのように単独行動をする動物には同情心はない。

 

B型の自己中で同情心に欠ける性格は、単独行動するDNAに起因して、一生変わることはないのかも知れない。

 

B型には[私]はあっても[公]の概念が不足している。

 

ただ!

日本人には[私]が不足しているのかも知れない。

 

王貞治は流し打ちのないバッターだったけど、反対方向をイメージして、そんな先入観で見てると、日本刀のような周辺の知識が都合良く変化して、流し打ちの方法に気付いている。

 

正確に見ている訳ではなく、どこまでも都合よく見て。

 

インスピレーションを得ている。

 

インスピレーションは自分の内にある美意識が引き出されてくるのかも知れない。

 

ピカソの絵は、良い感じに壊れていることに意味があって、自分の内にある美意識が引き出されてくるのかも知れない。

 

表面的な形に囚われることもなくインスピレーションを得ることができる。

 

「囚われる」で検索すると。

 

とらえられる。つかまる。

「敵に―」

自由に考えることが出来なくなる。拘束される。

「外見に―な」

00001. 

一本足打法を見ると、どうしても、あの形に囚われてしまう。

 

ただ!

一本足打法を見た時の印象は「あれは真似るもんじゃないな~。」と誰しも感じる。

 

そんな点も重要で、表面的な形に囚われる事もなく周辺にある知識で話を盛っていると、フッと気付く。

 

一本足打法は、自分好みに変化することで役に立っている。

 

恐竜は鳥に変化して生き残ったように、一本足打法も都合良く変化して生き残っている。

 

もしも!

一本足打法は都合良く解釈されなかったら王貞治は忘れられてしまう。

 

役に立つ答えは、自分のために考えることで見つかる。

日本人に不足しているのが[私]かも知れない。

 

解説者が「あのピッチャーは球持ちが良い。」と言う。

 

「それなら、どうすればできるんだ?」という疑問を共有して、考える共通の基盤ができて、後は誰かが気付けば良い。

 

ほとんどの人はTVを見てるだけで、そんなプロセスを、ちゃんと理解して、理解度に個人差はない。

 

多くの日本人は、疑問から気付きまでを共有している。

 

そんな他力本願な理解力は「どういうこと?」という疑問だけで、結論は無くても成立する日本語の文法に強味がある。

 

やはり!

日本人に欠けているのが[私]かも知れない。

 

もともと日本人には[公]という一体感があって。

 

それに加えて、自分のためという[私]の両方向で考えることができるのは日本人だけかも知れない。

 

王貞治は流し打ちのないバッターだったけど、かなり都合良く解釈されて、流し打ちの仕方に気付いている。

 

正確に見ている訳ではなく。

 

それは「流し打ち」という自分のための答えをイメージして、答えから考える逆方向の思考回路は使えば良いのかも知れない。