小津安二郎 | エイジのブログ

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ベートーヴェンは、もう楽器の音が聞こえない。

 

ピアニストの演奏を聴いてるとピアノの音しか聞こえてこない。

 

何かをイメージしながら弾くと、新しい新鮮な音が聞こえてくる。

 

古い一本足打法からインスピレーションを得て、新しく新鮮な[ひらめき]を得ている。

 

一本足打法に囚われても意味がない。

 

日本人は、そこからインスピレーションを得ている。

 

ベートーヴェンは、もう耳が聞こえない。

 

彼は美しい音のイメージがあって、それは楽器の音色を超えている。

 

そう思って聴くと、いままで聴いたこともない美しい音楽が聞こえてくるのかも知れない。

 

「カルメン・ラフマニノフ」で検索すると。

 

ラフマニノフのピアノ協奏曲2番3楽章は、洋楽で1975年エリック・カルメンの大表作「ALL BY MYSELF」にも採り入れています♫

 

その記事にカラヤンの指揮する音源が貼り付けられていたけど。

 

一本足打法からインスピレーションを得ることに意味があって、一本足打法に囚われても意味がない。

しかし!

クラシックの世界は楽譜が絶対で、カラヤンの指揮もラフマニノフの楽譜に囚われているのは仕方ないのかも知れない。

 

しかし、そんな中にあってベートーヴェンはもう耳が聞こえない。

 

「自尊心」で検索すると。

 

自尊心とは、自分で自分のことを誇らしく思う心を意味する。 簡単にいうと、自分への高評価ということである。 英語で自尊心は self‐respect、あるいは self‐esteem と表現できる。 自尊心とよく似た意味の言葉に「自己肯定感」や「プライド」がある。

 

ベートヴェンは聴力を失って自尊心は傷ついて、そんなベートーヴェンを想像すると、楽器の音色からも、楽譜からもブレイクスルーしていく、現実を否定したい心理は理解できる。

 

「古池や蛙飛び込む水の音」

 

「古池」や「蛙」に、それ以上の意味はないけど、読者は「古池」や「蛙」に囚われることもなく、それ以上の意味を空想している。

 

一本足打法からインスピレーションを得ることに意味があって。

 

この句も一本足打法もインスピレーションを得るための基盤に過ぎない。

 

「基盤]で検索すると。

 

その上にすべてを積み上げてゆく土台。物事の土台。

「生活の―」

 

何らかの先入観で見ると気付くけど、何の先入観もなく見ると、何も気付かない。

気付きは基盤の上に付け加えたもので正確さではない。

 

東京物語で検索すると、上京した年老いた両親とその家族たちの姿を通して、家族の絆、親と子、老いと死、人間の一生、それらを冷徹な視線で描いた作品 ...

 

『東京物語』は大きなドラマがある訳でもないのに検索結果のような印象を与える。

 

小津安二郎は映画の中で、ローアングルで家族が廊下を歩く足元だけを繰り返し見せている。

 

平凡な日常生活を繰り返し見せている。

 

老夫婦には、その先のドラマは、もうない。

 

何気ない日常生活に意味なんかないのに。

小津安二郎の映画は、ゆっくりと時間が過ぎていく平凡な日常生活を見せて、それ以上の意味を感じさせる。

 

「古池や蛙飛び込む水の音」

 

余韻を残したり。

 

インスピレーションを与えている。