小津安二郎の『東京物語』を思い出す。
日本人は[あいまい]で、正確に見ている訳ではなく、場の空気を読んで、因果関係として変化していく様子を気にしている。
日本人は感傷的で、不安定に揺れてしまう。
日本人は理性や理論よりも、まず感傷的な気持ちで感じ取っている。
理性や理論は科学的だけどハードルが高く、その点感情は科学的ではないけどハードルが低く、理解の入口として簡単に伝わって。
時間をかけることで、やがて科学になっていく。
小津安二郎は映画の中で、極端なローアングルで家族が廊下を歩く足元だけを繰り返し見せて、そこから日常生活を感じるように演出している。
俳句も五・七・五しかない。
俳句は、ありふれた言葉を使って、読者の想像は、その言葉のもつ意味を超えていく。
もしも小津安二郎に『ゴースト』の台本を渡すと『東京物語』のように、モリーの孤独を感じされるために、何を、どう表現するんだろう。
小津安二郎の感情で増幅され、我々にも分かりやすくなっているはず。
楽器の音色を超えた部分がベートーベンの才能で、レクサスのデザイナーは日本刀からインスピレーションを得て日本刀を超えた部分がデザイナーの才能で、誰もが、レクサスやベートヴェンから、そんな才能を感じることができる。
東大生のリアリティーを感じない話し方が気になる。
正確に早く模範回答を答えるためには先入観を伴わない方が良いのかも知れないけど。
そもそも日本人の理解力に正確さや早さを求めることが間違っている。
数学の入試が記述式に変わると、解釈を付け足した部分が数式の意味で、日本語は数学に向いているのかも知れない。
数学の入試が記述式に変わると、それは文科系数学で、日本語は感傷的な言語で、理性や理論的な説明には[あいまい]なところが気になるけど、感情の伝わりやすさに注目すべきなのかも知れない。
「感情」の反意語で検索すると。
理性です。
どうやら感情は理性や理論の対極にあるみたい。
しかし感情は簡単に伝わって、理解の入口としてはハードルが低い。
NHKの番組で「人は、ぼっとしている時に、ひらめく。」と言っている。
まず感情で話を聞けば、気付くことが多いという意味かも知れない。
理論は、そうとしか解釈できない。
理論は結論で、しかし感情は入口と考えれば効果的なのかも知れない。
感情は、その先で理論になっていく。
アメリカでは、どうしてもサクセスストーリーにしないと具合が悪く、脚本家は目まぐるしいストーリーを書いたけど。
日本人はアメリカ人とは違って、一人ぽっちのモリーに思い入れて。
日本人にとって『ゴースト』は入口はあっても出口のない映画で。
どこまでも感傷的な物語なのかも知れない。
