ジョージ・ソロスがTVのインタビューで「我々は危機感が強いんだ。」と言ってたけど。
ユダヤ人に学者や芸術家が多いのは、危機感や不安感から早く逃げ出したくて「溺れる者はワラをもつかむ。」と周囲にある知識に、しがみついてしまう。
必死さから、周辺にある知識に、しがみついて、少しぐらい無理があってもヒントに変えてしまう。
そして[ひらめき]は突然の変化で。
それは受け入れる安心感で変化することはなく、それとは逆の嫌がる拒否反応から変化してしまうことが多い。
ワラに、しがみついたり。
拒否反応が激しかったり。
しかも「常識や既存の価値観は自分を守ってくれない。」と、遠ざける距離感といい、ユダヤ人の否定的な感情を想像すると分かりやすい。
ユダヤ人のおかれた状況を想像すると、ユダヤ人の感情にシンクロさせることはできるはず。
やはりユダヤ人の理解には、理性ではなく感情の方が分かりやすい。
人は、どうしても追い詰められると「自分は悪くない。」「自分の責任ではない。」と自分を正当化するための[答え]が必要で、それが考えるきっかけになることが多い。
それは言い訳や言い逃れでしかないけど。
「溺れる者はワラをもつかむ。」と言うように、とりあえず、思い付いた知識で正当化しようとする。
それは男らしくない、みっともない姿だけど。
そんな言い訳や言い逃れが、考える、きっかけになっていく。
なによりも!
言い訳や言い逃れは、才能ではなく、長所ですらない。
だからこそ!
誰にでもできる、やり方だからこそ価値があって。
一本足打法は、日本刀から多くのヒントを得ている。
それは気付けば[コロンブスの卵]のように簡単なやり方で「誰にでも、できるからこそ、価値のある答えじゃないの。」
誰しもモーツァルトのような作曲はできない。
しかし!
モーツァルトやルノアールのような天才は少数いれば十分で、なによりもモーツァルトやルノアールは、すぐ側にいて、その果実を得ることはできる。
一本足打法は、日本刀から多くのヒントを得ているのに、殆どの人はスルーしている。
ただ!
日本人は周囲の変化しそうな気配は気になってスルーできない。
日本人の集団志向性は、皆から離れていく自立は怖くてできないけど、置いていかれるのが怖くて、ついていくことで変化に対応している。
日本人とユダヤ人では怖いものが違うけど[怖がっている]それが「溺れる者はワラをもつかむ。」という心理状態につながっている。
アメリカの大学のように「この本を批判しなさい。」と否定する教育は、容易に学者の心理状態に同期させることができるかも知れない。
学者の答えを探す必死さは、彼らのおかれた状況を知ると十分理解できる。
そして学問とは関係ない、学者のおかれた状況を知ることで、学者の心理状態に同期して、学者の思考回路に侵入することができるのかも知れない。
人の感情は、簡単にシンクロできることで。
有名な学者ほど感情は豊かで、すぐ側に感じることができるのかも知れない。