『ローマの休日』を書いた脚本家トランボは赤狩りで祖国を追放され、なぜローマなのか?
王女も、一瞬!自分の地位やアイデンティティーを見失ってしまう。
『ローマの休日』に、アイデンティティーを見失ったトランボの、社会との複雑な距離感を感じる。
NHKの番組で「人は、ぼーっとしている時に、ひらめく。」と言っている。
[無]という、空っぽの心理状態に意味があるのかも知れない。
日本人の好きな間(ま)という概念は、不思議な概念で、何もしていない、何もない[無]だけど。
間(ま)という言葉に、なぜか日本人はリアリティーを感じて、空想は膨らんでいく。
日本の文化は[答え]を求めてはいない。
桂離宮を見てると、時間が、ゆっくりと過ぎていく。
次第に気持ちは満たされていく。
幸せな気持ちで満たすための[無]なのかも知れない。
龍安寺の無機質な石庭は、しがらみを壊している。
ピカソの絵は、見ている人の中で芸術になっている。
漫才のように良い感じに壊れて想像を誘っている。
ピカソと、その絵を見て芸術と感じる人の、どちらが才能なんだろう?
No.2(二番手)も才能なのかも知れない。
むしろ!イノベーションは二番目・二次的に現れてくる。
無機質な石に意味など無く。
石庭を見てるとアイデンティティーを見失ってしまう。そのための石なのかも知れない。
桂離宮を建てた大工は[1]を見て[10]を知る、優秀な二番手で。
桂離宮を見てると、そんな気持ちが伝わって、幸せな気持ちで満たされていく。
そのための[長い時間軸]なのかも知れない。
ある日本人の女性がアメリカの大学に留学して「この本を読んで批判しなさい。」という課題を出されたという。
批判は[引き算]で空白を作って、逆に考えで穴埋めをしている。考えるための、一つの方法かも知れない。
ただ!
嫌うと言葉は貧しくなってしまう。
プロファイリングは犯人の異常心理で「特定の個人やグループに特徴的な指向プロセス」で、ほとんどの人には当てはまらない。
犯罪者は、その異常心理から選択肢が無くなってプロファイリングが可能なのかも知れない。
桂離宮は、ずっと見ていたい。
そんな気持ちで見てると言葉は豊かになって、言葉と伴に気付き、考えるようになっていく。
ピカソと、その絵を見て芸術と感じる人の、どちらが才能なんだろう?
No.2(二番手)も才能なのかも知れない。
むしろ!イノベーションは二番目・二次的に現れてくる。
そのための[無]や間(ま)なのかも知れない。
[答え]から考える欧米人には[無]や間(ま)は無意味なのかも知れないけど。
日本人は科学者というよりもエッセイストで。
自由で、楽しい空想に誘うと、なんとなく目的地が見えてくる。
そのための[無]や間(ま)なのかも知れない。