日本ではアトムやガンダムを見て育っているのでロボットの研究者が多いように、アメリカではシャーロックホームズを読んで育っているので、周辺の状況から犯人を言い当てるプロファイリングという手法を考案している。
戦中・戦後は、今以上に権威主義的で、教科書や教師は絶対的で、否定や批判は認めない空気に満ちている。
しかし!
記述式の入試に変わると、生徒は想像もしなかった方向に展開していく自分自身を書くことになるのかも知れない。
やはり正確に認識するのが健康的な知能で、途中で変化してしまうのは認識力に問題があって、それは欠点かも知れない。
コンピューターにインプットした情報が変化してしまうと、それは故障している。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
この句には言葉以上の意味はないけど、この句の愛読者は「古池」や「蛙」という、本来!言葉が持ってる意味に、想像を上乗せしている。
芭蕉は、あえて「古池」や「蛙」いう、ありふれた、大した意味のない単語を使っている。
しかし!
この句を読む人は「なんだろう?」と想像している。
芭蕉は、ありふれた表現なのに「うん?」「なに?」と想像するように仕掛けている。
一本足打法は、周囲のありふれた知識をヒントに変えて、想像を膨らませてバッティングのコツを見つけ出している。
一本足打法の価値は、そんな空想を誘うところにあって、正確に理解している訳ではない。
戦中・戦後は、今以上に権威主義的で、教科書や教師は絶対的で、否定や批判は認めない空気に満ちている。
今日でもペーパーテストを繰り返して、自由な解釈は有り得ない。
そうではなく!
エジソンの蓄音機は、それを見てる人の想像を膨らませて「そうか!」と[ひらめき]を与えて、あっという間にレコードプレイヤーに進化している。
日本の文化は、日本画や能のように説明不足なものが多く解釈を丸投げしてくる。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
国語の授業で、何を感じたか尋ねてみれば良い。
「うん?」「なんだ?」それが日本人の学習能力を育てる方法かも知れない。
なによりも!
学習能力はコピーではなく、想像を上乗せして進化を加速していくことで、ペーパーテストでは起こり得ない。
日本ではアトムやガンダムを見て育っているのでロボットの研究者が多いように、アメリカではシャーロックホームズを読んで育っているので、周辺の状況から犯人を言い当てるプロファイリングという手法を考案している。
想像は科学ではなく、アニメでも十分に効果を上げることができるのかも知れない。
変化する学習能力と変化しない記憶力は矛盾してしまう。
記憶力で測ると70点~80点くらいがバランスがとれているのかも知れない。
偏差値と変化する学習能力は矛盾しているけど、イノベーションで成果を上げているのは、偏差値でいうと、どれくらいなんだろう。
そう考えると見えてくるものがあるのかも知れない。
「東大出の才能っているの?」
太宰治は満点にちかい点数をとっている。
模範解答を即答しなければいけないテストとブレイクスルーしていく芸術的な才能は矛盾している。
というよりも!
過度に記憶させたり、偏差値の見方が間違っている。
そもそも太宰治は優等生で、なによりも作家で、挫折は必要でも、もう必要以上の記憶力や偏差値は無意味なのかも知れない。