イノベーション 20 | エイジのブログ

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王貞治は日本刀での練習から、偶然、バットが体のすぐ側をすり抜けていく振り方が生まれて、そこから内から外、インサイドアウトの振り方が可能になっている。

 

最初から話を組み立て直していると、それに気付いて、内から外、インサイドアウトの振り方は、誰でも簡単にできるものになっている。

 

結論だけでは、意味が分からない。

 

最初から見直していると、日本刀との関連性に気付くことができて、なによりも、誰かが、それに気付けば知恵として共有できる。

 

「誰かが気付けば良い。」

 

有名な学者の話を直接聞くことができれば、空想から始まる話はSFのように楽しくて、SFはハードルが低くて、そして[ひらめき]があって、分かりやすいのかも知れない。

 

最初から話を組み立てると、分かりやすいのかも知れない。

 

そして、学者の非科学的な空想や[ひらめき]に感化され、我々もスイッチが入って、学者の納得できるまで何度も話をリセットしているので、分かりやすく、まるでコロンブスの卵のように「それなら、自分にもできそうだ。」と思えるのかも知れない。

 

イノベーションには「楽しい。」がキーワードかも知れない。

 

いきなり結論に到達するはずもなく、最初は自由な空想で良いはずなのに、日本ではテストを繰り返して、いきなり正解を要求して[自由な空想]というプロセスが無い。

 

そうではなく!

プロセスを説明する記述式の数学は、答えのない龍安寺の石庭のように、むしろ日本的で「自由な解釈なら、自分にもできそうだ。」と感じる生徒がイノベーションに必要な人材かも知れない。

 

テストをして、いきなり答えを要求している。

 

ピカソの壊れた絵は見ている人の中で芸術になっている。

 

まるで漫才のように、良い感じに壊れて空想は常識の境界線を超えて行く。

 

それならハードルは低いはず。

 

そして日本人の[あいまい]な話しでも聞き手が[さっして]言葉を付け足して理解してくれるので、中途半端な会話は成立して、そのうち説明は後付けされていく。

 

「うん!」「どういうこと?」という疑問も不安感として伝わって、誰かが気付くと高揚感として伝わっていく。

 

感情は理性の下にあると考えがちだけど、日本人は不安感や高揚感のような感情で会話している。

 

むしろ感情には優位性があって、「なに?」「どういうこと?」という、まだ説明できない疑問も伝わって、そして「そうか!」という、ひらめきとして伝わって分かりやすい。

 

日本人の思考回路はウエットで論理的ではないけど、疑問という説明できないものは不安感として伝わって、[ひらめき]は高揚感として伝わっていく。

 

そして、論理的な思考回路の欧米人には、できない「誰かが気付けば良い。」という他力本願な学習能力が機能している。

 

理論で伝えるのは相当にハードルが高いけど、感情なら簡単に伝わって、説明は後付けでも構わない。

 

日本人にとって、感情は理性の上に位置している。

 

そんなところに何人かでの協同研究のハードルの低さがあって!

 

日本人は話し手と聞き手の二人の中で、話は完成していく。

 

これは日本人だけで、欧米ではピカソの絵くらいで、決して多くはない。

 

しかも記述式の数学は「分からない。」という挫折感も、問題提起能力として評価してもらえるのかも知れない。

 

記述式の数学は「分からない?」という疑問から「そうか!」という発見を書くことになって、能力が見えてくるのかも知れない。