『なんでも鑑定団』で島田伸介は「茶碗だけは分からん。」と言っていたけど、何億円という価値を感じる人もいれば、島田伸介のように何も感じない人もいる。
この[感じる力]の違いは、どうしてなんだろう?
たしかに!
光悦の茶碗を見ながら「今、感じているものを、どう表現したら良いんだろう?」と言葉は思い浮かばない。
光悦は、もうこれ以上、竹へらを入れるつもりはなく粗削りのまま終えている。
「完成した形には興味が無いのか?」
ジュジアーロは「日本刀は最も優れた工芸品だ。」と言っているように、日本刀の精神性の高さは誰もが感じることができる。
日本刀の精神性も[抽象的]で言葉で表現するのは難しい。
芭蕉は、光悦の茶碗や日本刀の精神性を、どう表現するんだろう?
日本刀の精神性の高さは誰もが感じて、強い余韻を残しているのに!
日本刀を見て、その精神性の高さを、どう表現したら良いのか、どうしても言葉が思い浮かばない。
「芭蕉は、見事に表現している。」と言うよりも!
芭蕉の句は「きっと、感じてくれる。」という芭蕉の期待感が伝わって、読者は自尊心を、くすぐられている。
それでも俳句には[結論]の様なものは無い。
なぜか!
数学者は論理的に考えることのできるのに、なぜか非常識な世界にいる。
「何があったんだろう?」
アランチューリングは同性愛者で、当時のイギリスでは同性愛は忌み嫌われ精神病という見方をされている。
「常識は自分を守ってくれない。」と常識に背を向けている。
自分の受け皿が無く、違う時間軸に現実逃避している、
彼の[負のエネルギー]は強くても、感情という一段ロケットは理性による姿勢制御をしながら、やがて切り離す必要があって、切り離さないと人工衛星ともども地上に落下してしまう。
光悦の茶碗も日本刀の精神性も抽象的で、いま感じている気持ちを言葉で説明ができない。
光悦も芭蕉も具体的な表現方法ではなく、読者の自尊心を、くすぐるという、違う方法で高揚感を感じさせている。
読者は、この句を読んで、ありふれた[古池]や[蛙]に、言葉の意味以上のものを感じて「なるほど!」と自尊心をくすぐられる。
数学の計算力とは違って、数学を考える力は抽象的で[感じる力]が必要で、何度も何度も同じ事を考えている。
しかし!
何度も何度も考えるのは自信が無いからで、自分に自信がある優等生は、何度も何度も考えたりはしない。
模範解答を即答して!
一分で終わらせている。
東大生のリアリティーを感じない話し方が気になる。
「なに?」から「そうか!」と気付くまでのプロセスが無い!
偏差値型の優等生には、不安感から達成感へという感情のブレがない。
偏差値型の優等生に、光悦の茶碗を見せて「何を感じる?」と尋ねてみたい。
光悦や芭蕉は「なに?」から「そうか!」という気持ちのブレを伝えようとしている。
そして抽象的な表現でも、そこには「きっと、感じてくれるはず。」という信頼感があって、見ている人の自尊心をくすぐっている。
どの程度、自尊心をくすぐられているのかという見方で[感じる力]は分かるのかも知れない。