大学入試が記述式に変わるのは必然で、試験会場で受験生がパソコンを使いながら回答をしても、おかしくはない。
最近ビックデーターという言葉を耳にする機会が多いけど、ビックデーターと言っても、誰が何を買ったという、どうでもいい情報で、それをどう分析するかは個人の自由裁量に任せるしかないらしい。
プロファイリングも、同じみたい。
データーの分析力が重要になってくる。
もしかして近い将来、受験生は受験会場でパソコンやスマホを使って、膨大な情報の中から必要な資料を入手して、それを使って自分の意見をまとめていく能力が求められていくのかも知れない。
プロファイリングができるのは、人の感情に共通点があるからかも知れない。
[ひらめき]は、挫折感から高揚感へと、人の感情の浮き沈み現象で!
AIには挫折感も高揚感もなく[ひらめき]はない。
川端康成や太宰治のように、かつての文豪は東大出が多かったのは、表現するための言葉や資料は、記憶の範囲内に限られて、やはり記憶力は必要だけど!
パソコンは、人の記憶量を凌駕している。
パソコンを使えば、語彙で川端康成や太宰治を凌駕することができて!
『閑さや岩にしみ入る蝉の声』
日本語は文法的に、単語を自由な並べ替えることができる。
パソコンを使って、単語や文節を並び替えて!ホップ・ステップと弾む並び順を探したり。
そして類似語で検索すると「これだ!」と化学反応を起こす単語が見つかる。
川端康成や太宰治の時代、原稿用紙にペンで書くしかなく、書き直すたびに原稿用紙は汚くなって創作意欲を削がれてしまう。
どうしても一発勝負のような文章になってしまう。
なによりもパソコンなら推敲を重ねてもパソコンの画面が汚くなる事もなく、ホップ・ステップと弾む表現が見つかると楽しい。
映画『シェーン』の最後のシーンが印象的で!
ジョイ少年の「シェーン!カムバック」という声がワイオミングの山々に、こだますると、観客は、大きな余韻を残している。
俳句も余韻を残している。
日本語は感傷的な言語で、日本語で会話をすると言葉の枠を超える余韻を感じる。
日本人の[ひらめき]は日本語から生まれている。
パソコンの画面に写真を張り付けることで、写真からも余韻は増幅していく。
「7」という数字には皆が知る意味しかなく、数式は数字や記号に上乗せした部分が数式の意味で、日本人の数学者の考えた数学なら、数式は俳句の様に余韻は伝わってくるのかも知れない。
AIには、そんな人の感情が理解できない。
計算力や記憶力で、人の能力を凌駕しても、プロファイリングやビックデータの分析で意味が理解できない。
数学が記述式に変わると!
フッと気付いて、上乗せした部分が数学の意味で!
日本語は感傷的な言語で、ジョイ少年の「シェーン!カムバック」のように、感情は言葉の枠を超えていく。
数学の意味は、もう[さっして]感じるしかなく「一分で答えなさい。」というテストは消滅するのかも知れない。