欧米人には直接的な表現をしないと伝わらないけど、日本人は言わなくても通じると思っている。
俳句のように五・七・五しかなくても連想が働いてホップ・ステップ・ジャンプと[ひらめき]を与える仕掛けがあって、日本人は何かを感じさせる!さっして気付かせる表現を好んでいる。
含みのある表現を好んでいる。
会話は受け止める人間がいて成立している。
上の空の母親にボールを投げても、ボールはバックネットの方に転がっていってしまう。そのたびに言葉を見失って語彙の貧しい子になってしまう。
小学生の入選作文を読んでると、その子が母親とキャッチボールをしている様子を想像してしまう。
りんごが木から落ちて・・・。
彼の、そんな心理状態に興味があって生い立ちをパソコンで検索してみると、案の定、親の愛情を知らずに育ったと書いてある。
心が満たされない時、そんな空白を埋めてくれる[答え]が必要で、自己分析して納得できれば、心の空白を埋めることが出来たのかも知れない。
「なんていう曲だろう?」
「きっと有名な曲なんだろうけど。」
ベートーヴェンを特集したドイツのTV番組で、今まで聴いたこともない美しい曲が聞こえてくる。
耳が聞こえないベートーベンは仮想現実の世界で、現実の音楽以上のものを思い描いている。
彼の思い描いている音楽は、現実を超えている。
何度も何度も繰り返し想像しても、求める気持ちが枯渇することはなかった。
仮想通貨を考えている数学者には、仮想通貨は見えなくても存在している。
見えなくても存在している。
アランチューリングはアスペルガー症候群で空気が読めなかったらしい。
それはガラパゴス諸島の動物のように周囲と隔絶した環境の中で独自に進化をしている。
ボールを投げるアランチューリングと、そのボールを受け取ろうとしている、一人ぽっちのアランチューリングを想像すると面白いのかも知れない。
子供の書いた文章を読んでると、その子の話を聞いている母親を想像してしまう。
母親は、その子に期待するものがあって!
その子の言葉が母親の胸に響くと、意味合いは濃いものになっていく。
「どういう話を聞きたいのか。」
「どういう結論を求めているのか。」
その子は、母親の、そんな期待に答えるための答えを用意する。
学習障碍児の中で理数系で才能を発揮する子がいるという。
「〇〇障害と才能が、どこでつながっていくんだ?」
ヨーロッパの小学校では児童に何がしたいのか尋ねて「絵が描きたい。」と言えば描かせて「本が読みたい。」と言えば読ませている。
何がしたいのか、何が欲しいのか!
幼児は[自我]の塊で!
「あれが欲しい!」
「いやだ!」
満たされない思いがあって。
幼児は母親を求めているのかも知れない。
母親が幼児の[求める気持ち]を大切に育てていけば!日本からベートーベンが育っていくのかも知れない。