数学 67  | エイジのブログ

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日本には王・長島という野球選手がいて、彼らを話題にするうちに野球理論にまで進化している。

 

もしも長島茂男がいなければ、日本人はプラス思考という考え方をしなかったかも知れない。

 

王貞治も日本刀や一本足打法から、偶然!何かが生まれて、そして誰言うとなく言ってた「1・2の~3」のリズムがヒントになってタイミングの合わせ方という、二番目の偶然が生まれている。

 

全て、偶然生まれている。

 

日本刀のイメージでバットを振ればヒントは、いくらでも見つかる。

 

今では、日本刀がキーワードになっている。

 

日本刀で練習をしていたという知識は[脚立]のようなもので、そんな知識がないと気付けないけど、気付くと「もう必要ない。」「邪魔だから、さっさと物置にしまってくれ!」と言いたくなる。

 

しかし最初から日本刀というキーワードを物置にしまうと理解できなくなってしまう。

 

日本刀という知識を[ひらめき]に変えて野球理論は生まれている。

 

蓄音機からヒントを得てレコードプレイヤーが発明されている。

ヒントを得ると蓄音機は、もう必要なく、博物館にもどして蓄音機の形は忘れないといけない。

 

教科書は、偶然生まれてきた歴史で[単なる知識]をヒントに変えてくれる。ヒントを得ると頭の中で、もう違うものに変わっている。

教科書はヒントを与えて、すでにその役割を終えているので、さっさと本棚にしまわないといけない。

 

全ては偶然生まれて「蓄音機は正しい!」と権威主義的な見方をすると、蓄音機は役には立たない。。

 

発明・発見には偶然が多くて、マニュアル数学には進化の歴史と雑学のような知識がなく、偶然もなくて、何も生まれてこない。

 

日本のマニュアル数学は、今では権威主義化して、変化も、進化もしない数学で、もう呼吸はしていないし、役に立たない数学になっている。

 

エジソン少年は、算数の授業中に「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と、もう1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したらしい。

 

エジソン少年は、偶然!粘土遊びを思い出して、1+1=大きな[1]という新しい答えを創作してしまった。

 

エジソン少年には権威主義的な数学はなく、粘土遊びをイメージして1+1=1という発想が偶然生まれている。

 

日本のマニュアル数学は、すっかり権威主義化して、そこからは何の偶然も生まれてこない。

 

日本の数学教育は、エジソン少年の1+1=1という答えに[×]をつけてしまう。

 

日本はイノベーションで出遅れてしまった。

 

イノベーションで勝利するためには、才能と、その才能を見出すための目利きが必要というよりも、偶然生まれてくる環境が必要で、そして!そんな偶然を理解するためにも、周辺の雑学のような[知識]が必要なのかも知れない。

 

日本の数学教育は、出題者の用意した答えしか認めない。すっかり権威主義的になって、エジソン少年の1+1=1という答えに[×]をつけてしまう。

 

王貞治は日本刀でトレーニングをしている。

 

そして一本足打法は誰言うとなく言ってたリズムがヒントになって、タイミングの合わせ方を思い付いて、二番目の偶然が生まれている。

 

そのためにも!

必要なものは権威主義を排除して、偶然!何かが生まれてくる環境かもしれない。

 

龍安寺の石庭に向かうと、時間がゆっくり過ぎていく、無機質な石に権威主義など有り得ない。

龍安寺の石庭で、権威主義がリセットされていくのかも知れない。