映画『アマデウス』の中でサリエリが「もう神なんか信じない。」「神はモーッアルトのような、いかれた小男に才能を与えて、自分には、それを理解する能力しか与えてくれなかった。」と嘆いて十字架を暖炉に投げ入れるシーンがあったけど、モーツアルトは、いかれた小男に意味があるのかも知れない。
ピカソは、やはり壊れている。
しかし、それを見ている人の中で芸術になっている。
壊れたピカソと、それを見ている人のワンセットで才能なのかも知れない。
ドイツのTV番組で「ヒトラーがいてゲッペルスは存在でき、ゲッペルスがいてヒトラーは存在できた。」と解説していたけど、才能も同じように、創造は破壊から生まれてくるように、やはり創造と破壊は矛盾していて、一人で完結するのは無理なのかも知れない。
映画『アマデウス』の中でモーツアルトは、いかれた小男として描かれているけど、その解釈は正しいのかも知れない。
やはりピカソの絵は壊れていて、それを芸術と感じる人を必要としている。
長嶋茂雄は能天気と揶揄されて監督を解任されてしまった。
それから何年も経ってから「あれ程までのプラス思考は、もう才能だ。」と、日本人は長嶋茂雄に夢を見始めている。
[プラス思考]という言葉は、まるで日本人を魔法にかける呪文のように日本人の中に浸透している。
長嶋茂雄は「プラス思考」という言葉を必要としている。
日本人には間(ま)というなキーワードがあって!
野球でも「足を上げて間(ま)をつくる。」という考え方も、日本人なら王貞治という成功例があって考える基盤になっている。
従来は、そもそもそんなに時間のかかる打ち方に意味があるとは思えず、おそらく考える対象にすらならず、逆にコンパクトな方向に進んで、小さく・小さくなってしまうと、もうパワーは出ない。
矛盾して行き詰ってしまう。
一本足打法という大袈裟な打ち方は、勢いをつけることでのみ正当化できると思っても、王貞治は「踏み込みで、力んではいけない!」と言っている。
「それなら、あの大袈裟な打ち方は何なんだ?」
意味が分からない。
そんな時!
日本人は間(ま)という言葉がキーワードになって、一気に謎は解けている。
TVで何度も耳にした「1・2の~3」という間延びのあるリズムと、一本足打法はイメージが重なっていく。
「2の~3」のリズムは魔法のリズムとして定着している。
日本のテストには正解があって!
しかも単語一つで完結している。
ほとんどの場合、何かと、違う何かが化学反応を起こして能力になっている。
長嶋茂雄の神通力を感じるためには「プラス思考」という言葉を必要として、王貞治からバッティングのコツを会得するためには間(ま)というキーワードを必要としている。
正解は、たった一つの単語で、そんなところに日本の教育力の弱さを感じる。