「常識に囚われない発想をしなさい。」と言うけど,実行できてない。
しかし!
人は誰しも「フェラーリが欲しい」という夢みたいな妄想をすることがあって、そんな妄想は才能でも能力でもない。
しかも我々の妄想は楽しくて、科学的か正しいのかは、もうどうでも良くなって、あっさりと常識の境界線を越えている。
梅林 秀行氏の[地形の高低差で歴史をひも解く]という空想も楽しくて、そんな空想に長い時間を費やしていたのかも知れない。
「そんな常識に囚われない発想に才能が必要なの?」
妄想は恥ずかしくて、とても他人に聞かせるものではない。
なによりも、妄想に他人の評価は必要なく、妄想という成功物語は自分自身の中で完結している。
しかし評価は理不尽なもので、自分のプライドを無視して、周囲から勝手に序列化されてしまう。
その点、妄想は自己完結型の成功物語で他人の評価を必要としていない。
そして妄想している時、常識と非常識、科学と非科学の境界線は無くなっている。
梅林 秀行氏は、ひきこもり状態でテストなんか無くて、もう他人の評価は気にならない。
彼には[地形の高低差で歴史をひも解く]という空想も楽しくて、そんな空想に長い時間を費やしていたのかも知れない。
評価とは理不尽なもので、結果や現象しか見ていない。
評価とは、元々そういうもので、ひきこもりという現象だけ見て、因果関係として見てくれない。
そもそも能力を評価するというやり方が間違っている。
イノベーションを言う時、先にスタートした方が有利で、教科書は過去で、後ろ向きでは、当然!出遅れてしまう。
特に日本人は横並び意識が強く、他人を出し抜くという意識が弱く、スティーブ。ジョブズの様に協調性が無く!自分の価値観を押し通すタイプは日本では成功できない。
しかも偏差値の様に序列化して、それを権威付けすると、日本人は『錦の御旗』に弱くて逆らえない。問題提起すら出来なくなってしまう。
イノベーションを言う時、これから未知の世界に出発する訳で、大学は終着駅ではなく始発駅でないといけない。
それを思うと!
日本の文化は俳句や能そして日本画のように表現が少なく解釈を丸投げしてくる。
日本語は[あいまい]で確定する力は弱くても、連想が働いて、そこから展開していく。
古い俳句でも連想が働いて、新鮮な[ひらめき]を誘っている。
俳句は何度も何度も推敲を重ねて詠まれている。
そして読者も気付けば何度も何度も読み返している。
俳句は正解を求めてはいない。
俳句は長い時間軸で考えることを求めている。
そして古い俳句には新鮮な[ひらめき]があって!
俳句は日本人のイノベーションを具現化している。