TVで[クエーサー]をテーマにした番組を見てると、天文学者は[クエーサー]を想像している。
そして[クエーサー]が理解されていく初期の段階は天文学者に見通す能力があるというよりも[クエーサー]は単に想像上の存在で!
おそらく最初にそんな事を言い出す欧米の天文学者は、おそらく一人だけだったのかも知れない。
日本人とは正反対で、少数派でも孤独感はなく、孤立を恐れてはいない。むしろ周囲を出し抜いていると自尊心は満たされていたのかも知れない。
そこらへんが日本人とは正反対で、日本人には「皆、そう言ってますよ。」が殺し文句になって多数派には逆らえない。
日本人には、それが正しいのか間違っているのかよりも、それが多数派なのか少数派なのかが重要で、日本人の発想力を弱めてしまう。
日本人は孤立化を恐れて、そんな事を言っているのは一人だけ!という周囲から離れていく方向で考える勇気はない。
しかし!
長所と短所は表裏一体のもので、日本人は、場の空気を読む能力が優れている。
[さっして]気配を読むのは日本人だけかもしれない。
東大生のリアリティーを感じない話し方が気になる。
受験生は、一人ぽっちで受験勉強をしている。
それは日本人の感受性が働かない環境かも知れない。
むしろグループ学習で刺激しあっていると、誰かがフッと何か思いつくと、周囲にいる生徒も、まるで自分で気付いたようにリアリティーのある発見をしている。
それは欧米人のように出し抜く勝利感ではなく[ひらめき]を共有することで、日本人は一人ではなく複数で考えている。
そして、なにかフッと気付く!そんな生徒は誇らしげで、教室ではヒーローになるのかも知れない。
群れが動きそうな気配に反応してしまう。
それは日本人のDNAで、やはり日本人にとって[ひらめき]は明確な答えというよりも、進行形で、気配のようなものなのかも知れない。
むしろ明確な答えは無くても良い!
気配を読んで皆で考えるのは日本人だけかも知れない。
そんなクローン人間のように均一で個人差も個性もない日本人を偏差値で序列化して、そして一人ぽっちで受験勉強させることに何の意味があるんだ!
龍安寺の石庭は日本人を、一人ぽっちにさせる。
そして龍安寺の石庭は、まるで時間が止まった空間のように感じる。
なによりも龍安寺の石庭は答えを求めてはいない。
日本の法隆寺や城のような木造建築や文化は、何百年も前に時間がゆっくりと過ぎている時代に作られている。
日本人は、時間がゆっくりと流れる[無]の環境が好きで、気持ちは穏やかに満ち足りている。
日本の法隆寺や城のような木造建築を見てると、余韻のようなものが残って、それは[利子]のように貯金されていく。
大学入試が記述式に変わると、答えだけ書いても説得力はなく、龍安寺の石庭の前に座っているような、そんな形の無い空気感のようなものを文章で表現しなければいけない。
これからの受験生は大量の文章を書かされることで、生徒の国語力は鍛えられて、なによりも、あいまいな日本語で考えることに意味があるような気がする。
長所と短所は表裏一体のもので、グループ学習で答えを見つけたり、一人ぽっちで自分を見つめて時間だけが過ぎていく!
そんな日本人向けの学習法があるのかも知れない。