王貞治は片足で立って、じっと静止している。そんな間(ま)が体に染み付いて、その結果「2の~3」の様な間延びのあるリズム感が生まれている。
とりあえず、そんな仮説を立てると「そういえば、なんで一本足でホームランが打てるんだ?」と分かっていないことに気付いている。
疑問があって仮説があるのではなく!
まず、一つの仮説を立てると「そういえば、どうしてだろう?」と、その後で、分かっていない点に気付いている。
英語は結論を言って、それから、その説明をしているので、結論の無い話は文法的にも成立しない。
一本足打法は、知り得る知識を総動員して王貞治物語が完成すると「そういえば、どうしてだろう?」と分かっていない点に気付いている。
羊は群れが動き始めると、とりあえず、ついていく!その時に仲間に「何があったんだ?」と尋ねたりはしない。
とりあえず、ついていくことで日本人は覚醒している。
説明は、後付けでも構わない。
人の理解力は、仮説の様な作り話から始まっている。
人の考えが理解できないのは、それは未完成で完成度が低かったりして、説明が不完全なのが原因していることが多い。
どうしても最初は空想という常識の外側をイメージしているので、いきなり完成度の高い話を創作することは難しい。
学者の仮説が分かりにくいのは順序が逆だからかも知れない。
最初に学者の「分からない?」という具体的な問題提起があって「そうか!」「なるほど!と気付くと、まるで自分で、ひらめいたようなリアリティーを感じて分かりやすい。
しかし「そういえば、なんで一本足打法でホームランが打てるんだろう?」という疑問は、一つの仮説が成立してから最後に分かっていないことに気付いている。
学者の仮説が分かりにくいのは順序が逆だからかも知れない。
最初に「なぜ?」「どうして?」という疑問があって、それから「なるほど!」「そういうことか!」という[ひらめき]があるのなら分かりやすいのかも知れない。
学者の空想は、我々の妄想のように、科学や常識の境界線を越えている。
[地形の高低差で歴史をひも解く]
梅林 秀行氏は地形の高低差から、過去の国家観や歴史観にタイムスリップしてしまう。
そんな時、論理的に納得しないと受け入れない欧米人と違って、日本人は空気が読めないと不安になってしまう。
日本人の学習能力はユニークで、とりあえず、ついていく!というプロセスを経て結論まで行き着いている。
日本人は周囲の空気を読んで、人の[ひらめき]や危機感を、一瞬の変化として感じ取っている。
そして、ついていく。
置いていかれるのが怖い、仲間外れが嫌で、とりあえず、ついていく。そんな主体性のなさに意味があるような気がする。
「そういえば、なんで一本足打法でホームランが打てるんだ?」という疑問は、一つの仮説が成立してから分かっていないことに気付いている。
説明は後付けでも良い。
とりあえず、ついていく。
そして科学と常識の境界線を越えていく。そんな主体性の無い日本人に可能性を感じる。
日本人のアンテナは一人では機能しない。
周囲の人を介してアンテナは機能している。
日本の歴史教育は、テストをして正確に理解して、正確に答えることを要求している。
「空想は科学じゃない。」
梅林 秀行氏は[ひきこもり]で学校の歴史教育とは切り離され、テストもなくなって、知識を暗記する必要性もなくなって[地形の高低差で歴史をひも解く]というオリジナルな考え方をしている。
日本人は空気が変わりそうな気配を感じると、とりあえず、ついていく。
日本人は自立した判断ができない。
そんな主体性の無さで科学と常識の境界線を超えていく。
『ブラタモリ』を見てると、我々も、同じ様にタイムトラベルができて面白い。