大学入試はマニュアルを覚えて、マニュアルに従って、模範解答という[たった一つ答え]を即答すると点数がもらえる。
しかし入試が記述式に変わると模範解答という単語だけ見ても面白くはなく、説明が必要になってくる。
疑問を感じて行き詰まり、何かがヒントになってフッと気付いている。そんな時間のかかるプロセスを説明する、生徒の[思考回路]が評価の対象になっていくのかも知れない。
日本の文化はユニークで、能も日本画の余白も鑑賞している人に解釈を丸投げしてくる。
わざと「 」余白を作って、鑑賞している人を「なに?」と会話に参加させている。
そして「自由に解釈をしてくれ!」と言ってるように感じる。
能も龍安寺の石庭もクラッチを踏んで日常生活から切り離して、非日常の世界に引き込んでいく。
答えよりも考えさせる事を重要視している。
そしてテストのようにも模範解答を即答させるのではなく、それとは反対に、時間さえかければ何かを感じてくれると思っているかのように答えを急がせてはいない。
石庭には答えはなく。
むしろ鑑賞している人を[自由]にさせている。
そして答えは見つからないまま時間だけが過ぎていく。
テストとは何もかもが正反対で、そんな石庭や能の方が、むしろ日本的。
日本人は[あいまい]で自由度の高い日本語で考えている。
そして気付けば!
自己流の思考回路で考えるようになっている。
それは、人の数だけ思考回路がある[五次元]のイメージかも知れない。
大学入試が記述式に変わると、そんな空想という形の無い[自由]な広がりを、そのまま文章で表現しなければいけない。
何かを感じる「何だろう?」という気持ちを伝えなければいけない。
そんな疑問や広がりは、ますます言葉での説明が難しくなっていく。
[負の能力]で検索すると、答えの出ない状態に耐える能力という記述がある。
何年も記述式の入試を積み重ねていくと、むしろ混乱した文章を書く子に、問題提起能力や想像力を感じて、その方が評価されるのかも知れない。
正解よりも、むしろ混沌とした「どう説明すれば良いんだ?」と迷っている姿に生徒の思考力が見えてくるのかも知れない。
そして当たり前の模範解答を答える子には魅力を感じなくなるのかも知れない。
生徒に、光悦の茶話を見せて「何を感じる?」と尋ねてみればいい。
光悦の茶碗のように、日本の文化は「時間さえかければ、きっと感じてくれる。」という期待感に満ちている。
そんな、あわてない!
そして「きっと感じてくれる。」という期待感が伝わって、鑑賞している人の中で、それらは芸術になっている。
アラン・チューリングはアスペルガー症候群で空気が読めなかったらしい。
有名な学者で検索すると、子供の頃[○○障害児]だったという記述が目立つ。
ピカソの絵のように現実感が壊れているのかも知れない。
そして龍安寺の石庭も、クラッチを踏んで現実感から切り離してしまう。
しかし、その先に何かある!
「何だろう?」
「何か感じる?」
英語は文法的に、いきなりyesかnoを言って結論を言わなければいけない。
英語で考えると、ますます追い詰められてしまう。
[負の能力]で検索すると、答えの出ない状態に耐える能力という記述がある。
龍安寺の石庭や光悦の茶碗は、そんな答えの出せない状態で!
むしろyesかnoを言わなくても良い日本語は、日本人を[自由]にさせて「ゆっくり考えなさい。」と言っている。
答えを急がせる大学入試は、そんな日本人の思考回路をショートカットしてしまう。