最近では世界中が右傾化して「あの国の犯行だ!」という思い込みがあると、あらゆる情報は、それを裏付けるものに思えてくる。
人は、そんな先入観がないと気付かないもので、まず何の根拠も証拠もない思い込みがあって、情報は、そんな思い込みを裏付けるものとして解釈されていく。
主観的で恣意的に解釈されていく。
人は不信感や嫌悪感のような[負のエネルギー]で気付いている。
「犯人はアイツだ!」という個人的な不信感や嫌悪感があると、そう思える。
そんな[負のエネルギー]は、まるで雪崩や地すべりに巻き込まれる様に、あらゆるものが押し流してしまう。
「学者の理解力も、そんなものかも知れない。」
最初は仮説のような思い込みから始まっている。
仮説は「こうなら良いのに!」という個人的で主観的そして恣意的なものでイメージしていて、それは願望に過ぎない。
しかし願望には静かなエネルギーがあって、それは地すべりや洪水の様に何もかもを押し流してしまう。
雪崩や地すべりは、やがて静まるけど、願望という静かなエネルギーは、知り得る知識を、自分の望む金型に流し込んでしまう。
[あいまい]な日本語は、自分の望む金型に流し込むと、やがて金型の形に冷えて固まったり、プレス加工も可能で、そのためにも金型が必要。
仮説は、案外そんなものかも知れない。
客観的で冷めた気持ちからは仮説のような作り話は思い付かない。
客観的で冷めた気持ちからは、そんな仮説という長い文章を書くためのエネルギーが足りない。
仮説は個人的な願望から生まれた作り話で、テストに馴染まない。
日本の教育には、模範解答があるので、願望という金型は、むしろ無い方が良い。
まず仮説を立てるという教え方は元々無い。
日本の教育は模範解答を即答することを求めて、生徒は模範解答の方を向いている。
しかし学者の仮説は常識に背を向けている。
群れて飛ぶ鳥は、次の瞬間、群れが上下左右どちらに行くのか一瞬で感じ取って、ぶつかることはない。
鳥にとっての意思疎通は現在進行形で常に動いている。
鳥にとっての理解力は、答えのような確定して!終了したものではない。
日本人の理解力も同じ様に、場の空気を読んで変化についていく。
鳥のように進行形で、その先をイメージしている。
日本人は空気を読んで、次の瞬間を予測する能力に秀でて、誰かが気付くと、その一瞬の変化を見逃さない。
光浦靖子は筆が進まないと、ぼやいているけど、読者は、そんな日本人で、一瞬の変化についていく。
動きそうな気配を感じると、それに反応する!
その先を予測させる記述が必要なのかも知れない。
ルイス・キャロルの思い描く『アリス』は希望のような[プラスのエネルギー]でイメージしているようで、実は!現実逃避という[負のエネルギー]でイメージしているのかも知れない。
日本の教育には現実逃避という[負のエネルギー]で空想したり、個人的な願望で知識をプレス加工してしまう非科学的な手法がないので、仮説を立てる!それは地すべりのように何もかもを押し流してしまう流れが発生しないのかも知れない。
「空想は科学じゃない!」
光浦靖子には、地すべりや雪崩のように何もかもを押し流していく、願望という静かなエネルギーが不足しているのかも知れない。