ネットで越路吹雪の歌を聴きながら「あの歌は越路吹雪の色に染まって、イメージが釘付けにされて、他の歌手は歌い難いだろうなぁ。」と思う。
越路吹雪の色が強すぎて、切り離すことができない。
その点、高畑充希は声質のせいなのか、まるで空気に絵を描いている様に感じる。
高畑充希の歌い方は、そこから自由に膨らんでいく。
「どうして!若い女の子に、あんな歌が歌えるんだろう?」
そして越路吹雪の歌い方は、硬い文語調に聞えて、もう古い歌い方に思えてくる。
その場所に留まっている。
エディット・ピアフの歌は、彼女の不幸な人生から、不安感のようなものを払い除けようとして、力みがとれない。
エディット・ピアフの歌は、恵まれない人生からの悲鳴に聞える。
夢の心理分析で、子供が高所から飛び降りるような夢をみるのは「今の生活環境を失いたくないという心理が働いているからだ。」という話を聞いたことがあるけど、それは今の環境が好ましいのではなく、子供には、ここしか生活できる場所が無いという追い詰められた不安感から、そんな夢をみているような気がする。
子供には、ここしかない!
他に生きていく場所はない!
飛び降りたいけど、できない!
今の生活環境から飛び降りると、もっと怖い!
他に選択肢が無いという心理が働いている様な気がする。
しかし!
親は、そんな怖い夢をみている子の追い詰められている心理が理解できていないような気がする。
そんな親は、1つのチャンネルしかないTVのようなもので、もう一つチャンネルが増えると理解できるのかも知れない。
過去のある時期に精神主義というスパルタな指導法があって、しかし今では暴力として否定されている。
一度スパルタという極端な方向に揺れて、行き詰って、そこから反対方向に揺れ戻す力が働いている。
今では、それらを比較することで「それは暴力だ!」とハッキリ認識している。
高畑充希の歌い方は、そこから自由に膨らんでいく。
それは夢をみる高揚感のような心理状態をイメージしながら聞くと良いのかも知れない。
新しい価値観が、もう一つ増えている。
俳句は繰り返し繰り返し推敲を重ねて詠まれている。
そんな繰り返しの中で、多くの言葉が捨て駒になっている。
しかし捨てられた言葉の残像が残って、俳句は味わいを深い句になっている。
俳句は、そんな余韻を感じさせる。
場の空気を読む日本人には、そんな余韻を感じることは、たやすくて、流れについていく。
一方方向に向いてしまうのは欠点だけど、やがて行き詰って、そこから反対方向に揺れ戻すことで、両方向から見つめて理解を深めている。
日本人の思考力は、多くの言葉を捨て駒にしたり!
一方方向に行き過ぎて、そこから揺れ戻して、いろんな方向から考えている。
夢の心理分析も、いろんな方向から分析すると意外な展開をしていく。
[負の能力]で検索すると、答えの出ない状態に耐える能力という記述がある。
日本の文化は説明不足で答えは無い。
日本人には、そんな[無用の用]と言っても良い、時間の無駄使いで、いろんな方向から考えることができるようになるのかも知れない。