一本足打法を見て「あんな大袈裟な打ち方は勢いをつけることでのみ意味がある。」と考えてしまう。踏み込みで勢いをつける。そういう方向で答えを探しても、うまく打てない!
本人も「踏み込みで、力んではいけない!」と言う。
踏み込みで勢いをつけるというスピード感から、反対に間(ま)でタイミングを合わせるという減速感に変化して、そしてTVで何度も聞いたリズムと結びついて、リズム感で弾みをつけるという加速感に、何度も反対方向に折り返しながら進化している。
日本の教育のように、そのままで何の変化もしない暗記に何の意味があるんだ?
暗記して、それで終わり。そこには答えを探す切実感もない。
日本人の思考が欧米よりも優れたところは、欧米人の様にNOは切り捨ててスッキリさせるのではなく、反対方向に折り重なって連続性があるところで、yesとnoがハッキリしないというよりも、連想が働いてエンドレスで終われないのかも知れない。
日本人は[一対]のものがそろう、幅を広げる考え方を好んでいる。
踏み込みでエネルギーを使うのではなく、エネルギーをためる、そして勢いをつけると、反対方向!反対方向とエンドレスに続いていく。
そのためにも矛盾した両方の考え方が必要で[一対]のものを比較して考えるのは日本人的で、今までの考え方は消去ではなく頭に残っている。
[失敗から学ぶ]
それは失敗を消去してしまうのではなく、消去しきれない残像のようなものが日本人の頭に残ってしまう。
それ自体は混乱ではなく[一対]のものとして共存している。
そんな考える時の幅の広さが日本人の強みで、失敗体験の上に積み重ねていく。
なかにし礼が「自分の詩は、書き直すたびに良くなる。」とラジオで言っていた。
日本語は推敲を重ねれば重なる程、文章の質は向上していく。
いろんな考えを書き溜めておけば、日本語は自然発酵して新しい意味を思いついたり、無関係な知識と関連性を感じたり!
日本語は情緒的で余韻のようなものが頭に残って、考えは次第に熟成していく。
日本語は[あいまい]で、結論を確定するのは苦手だけど、初期の空想のように考える領域を広げていく、日本語は考える[手段]として有効に働いて思考力は鍛えられていく。
日本語は何度も繰り返して考えるエンドレスな言語で!自分の書いた文章を、もう一度読み返すと何か思い付くかも知れない。
なかにし礼は「書き直すたびに良くなる。」と言っている。
結論は急がない方が良い。
模範解答を即答させる。
「○」しか認めない。
一つの答えしかしか認めないテストに何の意味があるんだ?