ルノアール 6 | エイジのブログ

エイジのブログ

ブログの説明を入力します。

もう何十年も前に玄関先に托鉢の僧侶がお経を唱えて、わずかなお金を与えると、いなくなる体験をしたことがあるけど、托鉢をする僧侶側から見ると「早く、何処か行ってくれ!」「いなくなってくれ。」という目で見られて、本当に辛い苦行だったと思う。

しかし、そんな体験をすると、受け入れてくれる優しさを感じた時に豊かな気持ちになって次々に言葉が思い浮かんでくるのかも知れない。

 

[ひらめき]は必要な時!必要な記憶を思い出す瞬間かも知れない。

 

受験勉強は記憶力という現状維持能力を試しているけど「現状維持能力に、何の意味があるんだ!」

 

そもそも記憶の殆んどは記憶したことさえ認識できない潜在意識に記憶されるらしい。

 

記憶力は記憶することが難しのではなく、思い出すことが難しいのかも知れない。

 

托鉢という「早く、どこかの行ってくれ!」「さっさと、いなくなってくれ!」という目で見られるのは苦行でしかなく、辛い体験だと思う。おそらく、そんな目で見られると気持ちは重く言葉を思い浮かばない。しかし普通の衣装を身に着けた時は、そんな目で見られることもなく、そして何でも受け入れてくれる人柄に接して、それは極普通の会話でも“豊かな気持ち”になれて

“幸せな気持ち”を味わえるのかも知れない。

 

“豊かな気持ち”や“幸せな気分”を味わうと、言葉は思い浮かんでくる。

 

アラン・チューリングは同性愛者で当時のイギリスは

同性愛を精神病と認識していて、彼は精神病の治療を

受けさせられて自殺している。

彼も「早く、どこかの行ってくれ!」「さっさと、いなくなってくれ!」と、そんな目で見られて、彼は気持ちが重く、言葉が思い浮かばない。一方では彼は優秀な

数学者でもあって必要とされた時、愛を感じた時もあったみたいで、受け入れてくれる人柄に接して、

それは極普通の会話でも“豊かな気持ち”になれて

“幸せな気持ち”を味わえたのかも知れない。

そして[ひらめき]は増していったのかもしれない。

 

ルノアールの絵は当時「腐った肉のようだ!」と酷評されている。

 

当時は絵の具しかなく、キャンバスに書き足すたびに

汚くなってしまう。

 

彼は美しい絵を描きたかったのかも知れない。

もしも当時コンピューターと彼の画才が発揮できる

ソフトがあれば彼は世界一美しい絵が描ける画家だったのかも知れない。

 

フランスのTVで、セザンヌは忌み嫌われて町を歩く時も、誰かに襲われると被害妄想になって精神を病んでいく様子が再現されている。

 

彼らが酷評されたのは絵の具に原因があるのかも知れない。そして、なによりも存在を否定され、気持ちは重くて、何も思い浮かばず、方向を見失っていたのかも知れない。

 

アメリカ人のデザイナーは、日本刀にインスピレーションを得てレクサスをデザインしている。

最近の車はLEDの進化でヘッドライトが随分と小さくなって車のデザイナーの自由度を増している。

しかしヘッドライトがあまりにも小さくなると奇異に

感じてしまう。

目新しいものに[美]を感じるまでに、どうしても時間がかかってしまう。

レクサスのデザイナーは「カッコイイ!」と感じた記憶を思い出そうとしている。

 

レクサスなら表面的にも美しいデザインが可能で!

ルノアールは画家ではなく、デザイナーなのかも知れない。

 

もしもルノアールがレクサスのデザインをすれば、ルノアールは托鉢の僧侶のような体験から

“豊かな気持ち”や“幸せな気分”に満ちたデザイナーになれたのかも知れない。

 

ルノアールは生まれてくるが早すぎたのかも知れない。