未来には、まだ答えは無く自分で作るしかない。しかし自由な空想にはハードルの低さがあって、そんなハードルの低さに注目すべきなのかも知れない。
数学も[7]には本来7番目くらいの意味しかなく、数学者は[7]という数字に新しい意味を自由に付け加えている。
数学者は自分仕様にルールを決めているのかも知れない。
数式は数学者が勝手に決めたルールで、いくつもある考え方の[一つ]くらいの受け止め方が正しいのかもしれない。
厄介なのは、数学者の自由な空想は、理解するためのハードルが、いたずらに高くなっている。
そして我々は、数学者が勝手に作ったルールーに従わなければいけない。
その数式は、その数学者が作った、その数学者仕様のものという点に注目すべきかも知れない。
ルイス・キャロルは数学者で[不思議の国]は、彼の自由な空想から創作されている。
数学者の自由な空想は、その数学者には自由でハードルが低くても、数学を学ぶ我々には彼らの自由な空想の理解は、とてつもなくハードルが高い。
数式のルールは、それを作ったものにはハードルが低くても、ルールに従わなければいけない我々にはハードルは超えられない程に高くなってしまう。
数式は、それを作った者には分かりやすくても、それを理解しなければいけない我々には、とてつもなく難しい。
『不思議の国』は面白くて引き込まれてしまう。
自由な空想は理解するものではなく、俳句のように同じ空想をしてれば良いのかも知れない。
それなら日本人は得意なはず。
なによりも数学は問題から自分で作れば分かりやすくなるのかも知れない。
建物の強度計算も建築技術が進歩して、より高層化が進めば計算方法も進化しなければいけない。
数式は作り直さなければいけない。
自由な空想というアバウトな感覚は、ハードルが高いのではなく、低いのかも知れない。
日本の数学教育には唯一絶対な答えがあって、まるで真理は一つ!答えは一つしかないという印象を植え付けている。
たしかに1+1=2には、それしか答えはないのかも知れない。100点の答えかも知れない。しかし高校で習った数学は、結構アバウトで100点満点の答えではなかった。
「そもそもテストで100点満点が有り得ること自体が間違っているんじゃないの?」
偏差値型の優等生は「これが正解だな!」とピンポイントに照準を合わせてくる。日本では、そんな生徒しか生き残れない。
しかし計算だけの数学はマニュアル化して「数学は暗記だ!」と言って、偏差値型の優等生は、数学者のように自分仕様の数式を作ることで理解できるという発想が無い。
空想力はアバウトで非科学的で、優秀と言う評価は相応しくない。
数学は、いたずらに権威主義的に考えない方が良いのかも知れない。
『不思議の国』という非常識な発想から、優秀な二番手へと受け継がれていけば良い。
非常識な考えは、やはり欠点なのかも知れない。欠点という見方で良いのかも知れない。
人の空想には破壊と創造があって[あいまい]な日本語には揺れ幅があって十分対応できる。
日本人は、人のひらめきを一瞬の変化として感じ、「分からない?」という思いは不安感として伝わって、日本人には無表情なマニュアルよりも、不安定に揺れている!人が考えている様子の方が分かりやすいのかも知れない。
数学は主観的な方が、日本人には分かりやすいのかも知れない。