『パピオン』は社会から絶縁された男を描いた映画で、脚本を書いたトランボは赤狩りで祖国から追放されてしまった。映画からは、トランボの絶望的な孤独が伝わってくる。
主人公の男は流刑地から逃げ出して何処に行きたいのか?
自分を罰した国に戻りたいのか?
そこには戻りたくないのか?
「一体、どうしたいんだ?」
流刑地から逃げ出しても、男に希望の地はあるのか!
男と社会との複雑な距離感を想像してしまう。
『ローマの休日』はオードリー・ヘップバーン(王女)がローマ市内にいて誰か気付くはずなのに、誰も気付かない。
トランボは、目立つのが怖いのかも知れない。
トランボは、むしろ怒りや恐怖という現実感を忘れたい。
そっとしておいて欲しかったのかも知れない。
トランボの、社会との複雑な距離感を感じる。
免許取りたての頃は交通事故のニュースを見ても他人事で現実感が無かったけど、今では事故の映像を見せられると気分が悪くなって、事故をを起こしたくない一心で運転している。
何年も運転してると、交通事故の現実感につかまって逃れられなくなってしまう。
同情心のある人は自分のことのように感じて距離感は近くて、同情心の無い人は他人事で距離感がある。
理解力は距離感と比例している。
理解力は同情心と比例している。
理解力は現実感と比例している。
理解力は責任感と比例している。
理解力は同情心・現実感・責任感という[ものさし]で測れる。
最近では日本も右傾化して隣国を疑っている。
「もしかして、あの国の仕業か!」と、そんな先入観で見れば気付くけど、そんな先入観がないと気付かない。
それは同情心とは正反対な嫌悪感で気付いている。
人は、こう思いたいという感情があると、あらゆる知識は、その人の中でそういう方向で接合されて関連付けられていく。
人は正しく理解しようとしているのではなく主観的・感情的な思いに背中を押されて考えている。
トランボは祖国から追放され、社会から切り離され!
そんな現実感に囚われて、ハッピーエンドが書けない。
『ローマの休日』の最後で「最も印象に残る都市は、どこですか?」と記者が質問するシーンが印象的で、トランボにとってローマは“希望の地”ではない。
遠くかけ離れた場所という程度のイメージなのかも知れない。
『ローマの休日』は、オードリー・ヘップバーンの魅力が勝ってシンデレラ物語になって、まったく別の映画になっている。
もしもマイナスイメージを取り除いて理想的なシンデレラ物語を描くと、お人形さんのようなシンデレラになって現実感がなくなってしまう。
やはり女の子が『白雪姫』に夢を見るためには、悪い魔女が必要なのかも知れない。
トランボの脚本には、そんな暗い背景があって『ローマの休日』というシンデレラ物語には、生々しい現実感が生まれている。