人は、好きとか嫌いという感情で判断していることが多い。
むしろ「嫌い」という否定的な感情で組み立てられることが多く、意見は主観的で感情的で!そんな考えるエネルギーが枯渇することはない。
人はNOで考え始めて、YESで終了している。
人は嫌いな物を否定することで、やっと気持ちは安らいでいる。
人は「NO!」で考えている時はエネルギーに満ちて、客観的に見ている時は考えるエネルギーが不足しがちで先に進めない。
コンピューターには感情は無く、感情で揺れることはなく考える動機がなく同じ答えしか出せない。
もしも不安定になれば、それは故障している。
龍安寺の石庭は[無]の状態にさせて、生活している社会を、一瞬忘れさせる。
かすかに感じるものはなんだろう?
龍安寺の石庭を見てると時間だけが過ぎていく。
一瞬、現実を忘れることに意味があるのかも知れない。
ペーパーテストのように、一分で答えを出すなんて有り得ないし、答えが[単語一つ]というのも有り得ない。
要するに[答え]を求めてはいない。
それとは反対に、広がりのようなものを感じる。
[答え]を求めないコンピューターは有り得ないし、コンピューターが[無]の状態になって現実を忘れるということも有り得ない。
「NO!」嫌いという感情で考えるということも有り得ない。
[AI]は自動運転車のように[正解]のあるものは、人を凌駕していくのかも知れない。
しかし、人の[考える力]それ以前の[感じる力]を凌駕していくとは思えない。
NHKTVで、江戸時代に庶民が高等数学を解いていたという番組を見ながら、江戸時代にテストなどは無く、むしろ石庭のように現実から[遊離]した心理状態から「今、感じているものは何だろう?」と、むしろ一瞬[答え]を忘れていたのかも知れない。
彼らは数式を見て、ポジティブな好奇心を感じていたのかも知れない。
彼らに「数学は好きですか?」と尋ねるとポジティブな返事が返ってくるような気がする。
彼らには、二次元のアニメのような空想が楽しい。
生徒の空想力が働くためには、どうやって数学を好きにさせるかが重要なのかも知れない。
日本には考えさせる文化遺産が多く、時間だけは、たっぷりとあって、それらは[答え]を求めてはいない。
