日本語は[あいまい]なところに可能性があるような気がする。
日本人が何かを言おうとする時、しばしばキーワードが出てくる。
野球中継を見てると解説者の「反対方向に打て」とか「球持ちは良い」のようにキーワードだけの解説が目立つ。
以前、川端康成の『古都』を読んだ時、次第にあやふやになっていく筋に失望したことがあって当時はパソコンはなく一発勝負の記述では限界があって、やはり何度も推敲を重ねて味わいの深い文章になっていく。
日本語は不思議な言語で何度も推敲を重ねると次第に意味は濃くなっていく。そして、そんなエッセンスのような文章から、いろんなものが生まれてくる。
それはランボルギーニのデザイナーが何度も何度も書き直すうちにカッコ良い車がデザインできるように、いくら川端康成でも一発勝負のような記述からは意味合いの濃い文章は書けない。
もしもパソコンがあれば川端康成は自分の書いた文章だからこそ、そこから[ひらめき]を得て次々と展開力をみせたのかも知れない。そして「もっと書きたい!」と思って自殺なんかしなかったはず。
ランボルギーニのデザイナーは何度も何度も書き直して自分のデザインに磨きをかけている。
そして、いろんな写真を見ながらインスピレーションを得ようとしている。昆虫だったり女性だったり、そんな写真に関連性は必要ない。インスピレーションを得るのに関連性は必要ない。インスピレーションとは、そういうものかも知れない。
それなら日本人は日常的におこなっている。何の関連性のない知識と知識が化学反応を起こして、新しく何かが生まれている。
英語とは違って、日本語は何度も何度も推敲を重ねるとエッセンスのような文章になっていく。
日本語は熟成するのに、どうしても時間がかかってしまう。
イチローの振り子打法にリズムを付け足して『イチロー物語』が創作されている。
日本語は[あいまい]なところに可能性があるような気がする。
英語は、まず結論を言って、その後説明を加えて、意味を確定しようとする意志が強く、ブレることを好まず、言葉の意味を正確に理解している。
それとは反対に日本人は説明の足りないものを[さっして]言葉を付け加えて理解している。
日本人はリズムという単語に何か予感のようなものを感じるのか、まるでキーワードのように使っていたり!会話の中で、そんな単語を付け加えて話しているとフッと気付いて『イチロー物語』が誰言うとなく創作されている。
日本語は書くことに意味があるのかも知れない。
日本語は、俳句のようにインスピレーションが働く!
説明不足な点が認識されると、ピッタリな言葉でそれを埋めようとする。
日本人にとって、能や俳句のように説明不足は問題ではなく、むしろインスピレーションのスイッチが入る。
ランボルギーニのデザイナーも書くことでイメージは膨らんでいったり、デザインに自信が持てるまでに何度も書き直している。
英語は結論を確定して、ぶれない!
英語圏の人は、どうやってインスピレーションを得てるんだろう?
日本では、誰言うとなく『イチロー物語』が創作されている。
何の関連性もない振り子打法とリズムが合体してタイミングの合わせ方を発見している。
インスピレーションを得るためには努力が必要だけど、しかしそこには関連性はなくても良い。
正解のように[一つ]ではなく、むしろいろんな物を見せて、気付かせる!発見させることの方が重要かも知れない。
