日本の文化は俳句や日本画そして能のように説明不足なものが多い。
光悦の茶碗を見て圧倒される日本人は多いはず。
「今、自分が感じているものは何だろう?」
光悦の茶碗は、光悦の美意識のフィルターを透かして見ることができる。
映画も映画評論家の解釈のフィルターを通すことで[濃縮]されて分かりやすくなっていく。
数式も同じかも知れない。
数学者の空想のフィルターを透かして見ることができれば理想的なのかも知れない。
有名な数学者の、ひらめきのフィルターを透かして何が見えているんだろう?
江戸時代の数学は欧米と比べても見劣りしないものだったらしい。
何人もの連想のフィルターを通して次第にイメージはハッキリとしてきたのかも知れない。
ビットコインは素数を使って偽造が困難な通貨らしい。そんな話をTVで見ながら不安になってくるのは、日本に何人ビットコインが理解できる数学者がいるんだろう?
そしてそんなことを考えている数学者の素数のフィルターを透かして何が見えるんだろう?
最初は空想という広がりがあって着地点が見つかっている。広がりがあって収束がある。破壊があって創造があるように、何度か反対方向に折り返しながら理解は進んでいる。
[空想]や[破壊]は、答えからは遠ざかっている。
そして他人の空想という分かりにくい段階を通過して反対方向に進む。まるで迷路のような思考回路を通って結論に行き着いている。
日本語は感傷的で気持ちは揺れやすい、そして能のように説明不足なものでも「日本人なら感じてくれるだろう。」という期待感を感じる。
光悦の茶碗から、光悦の美意識のフィルターを見ることができる。
日本人は、光悦の美意識のフィルターを利用している。
フィルターで検索すると「光や液体の必要なものだけを、こす」と書いてある。
能楽師は必要最小限の表現をしている。フィルターで、こす表現をしている。俳句も日本画も簡素化された表現で、我々は俳人や画家の美意識のフィルターを利用して[抽出]され[濃縮]されたものを見ている。
素数で検索すると[一とその数自身との外には約数がない正の整数。]という記述がある。
ビットコインを考えている数学者は素数のフィルターを通して、どんな[抽出]され[濃縮]されたものを見ているんだろう?
おそらく日本人の考えた数学なら、能や日本画そして[素数]のように必要なものだけをこすフィルターを利用して[抽出]され[濃縮]された表現から感じることができるはず。
光悦によって[抽出]され[濃縮]された美しいと感じる美意識を見て、我々もそれを感じることができる。
おそらく日本人数学者の考えた[素数]なら分かりやすいのかも知れない。
