日本には[やおよろずの神]がいて、日本人は教会にも、お寺にも神社にも平気で出かける。
こんな宗教観を持っているのは日本人だけ。
日本人にとって[真理は一つ]ではなく、真理はいくつもある。
日本人は多数派だと気持ちは大きくなって、少数派だと仲間外れにされたように感じて不安になってしまう。
やはり日本人のDNAは集団志向性が強く、そんな多数派に従うDNAに支配されているのかも知れない。
日本人は従属性が強く、そして主体性がない!それは自分で判断できないのではなく、とりあえず多くの神様や真理を受け入れて、その中から、この瞬間はどれが多数派なのか判断している。
今日、世界中で宗教対立や民族対立が深刻化している。
そもそも外国人は違う宗教を受け付けない。
日本人はとりあえず、いろんな神様や真理を受け入れている。
欧米人のように、いきなり「YESかNOをハッキリ決めろ!」とは言わない。
日本語は[あいまい]で自由度が高く最初のうち連想ゲームをしていると、やがて進むべき方向が自然に決まる。
プロ野球中継を見てると、解説者の中途半端で説明不足な会話が飛び交っていることが多い。
しかし、そんなところに意味があるような気がする。
十分理解できてない、結論のない会話でも、誰かが間(ま)という言葉に[ひらめき]を感じると、そこからの連想が働いて、次第に考える方向が見えてくる。
日本人の結論のない、成り行き任せな考え方には自由度が高く、どの方向にも進める、そんな方向の定まらない思考力に意味があるような気がする。
英語は文法的に明確な結論から話始めることになる。
その点、日本語の文法では結論の無い話でも可能で、現実に十分理解できてない会話をしていることが多い。
『この世界の片隅に』のすずは鈍感力と言っても良いポジティブな女性で、映画を見た後で「何だろう?」「一体自分は何を感じたんだろう。」と説明できない思いを感じながら多くの人は映画館を後にしたのかも知れない。
戦争の悲惨さと、ポジティブな鈍感力という複雑な映画で「この気持ちは、どう表現したらいいんだろう。」と、気持ちの整理をしているのかも知れない。
複雑で「どう考えれば良いんだろう?」
そんな時、日本人はストレスを感じてはいない。
町並みがカラフルになって日本車のデザインは大胆になっている。
日本人は失敗を恐れて、ついつい消極的になってしまう。しかし町並みの色彩が増すと大胆になって目立つことに快感を感じ始めている。
ネガティブな日本人が、ポジティブになっている。
しかし、正解という一つしか答えがなく、それ以外は[×]をつけると、失敗を恐れる日本人は消極的になってしまう。
数学という意味の分からないものを考える時、やがて方向が定まる日本人の思考力はユニークで!
考え方が幾つか揃っても、いきなり「どれか、ハッキリと決めろ!」とは言わない。
「何だろう?」
「今、自分が感じてるものは何んだろう。」と説明できるように気持ちを整理し始める。
[八百万の神]が」いて、真理が幾つもある日本人には自由度が高く、連想ゲームが可能で、思いもよらぬ方向に進んでいく!
最終段階の正確な計算ならコンピューターの方が優秀で、むしろ日本人の数学力は初期の、まだ方向が定まらない段階で、多様な考えを受け入れて、やがて淘汰されていく。
自己主張よりも、まずいろんな考えを受け入れている。
そんな幾つも答えがある日本人の思考力にテストは不向きで、テストにこだわると日本的な思考力は落ちこぼれてしまう。