一本足打法のタイミングの合わせ方も、やがてはマニュアル化していく。
それは[ひらめき]や、それからの試行錯誤の結果として生まれたもので、マニュアルは知恵の塊のようなもの。
「マニュアル通りやれば良いんだ!」マニュアルを教えてもらえば、もう特別な才能は必要ない!
数学のマニュアル化も同じように数学者の知恵の塊で、マニュアルを覚えれば答えは出せる!もう特別な才能はいらない!コンピューターなんか何の計算をしてるのか、まったく分からなくてもアッという間に計算をしてしまう。
まさにマニュアル化は数学者の考えた知恵の塊!
たまたまYoutubuを見てるとタモリが『笑っていいとも』で飛鳥に「作曲は8割まではできるんだけど、それからが出来ないんだ。」と言っていたけど、タモリも日本の教育では優等生でマニュアル通り答えていくことはできても、その上に自分なりの解釈を付け加えていくことが出来ないみたい。
日本語は[あいまい]で自由度が高くて、少しぐらい違う意味で話しても、相手が日本人なら[さっして]理解してくれる。
日本語は連想の働く言語で、俳句はありふれた単語でも、いくつか並べて連想ゲームをやりながら、その展開を楽しんでいる。
むしろ、ありふれた単語の方が生活感や現実感があってイメージしやすい。そして、なによりも日本語は連想の働く言語で、タモリは「8割まではできるんだけど・・・。」と言うけど俳句は五・七・五でも情感は膨らんでいく。
日本語を使いこなすことで、その先の展開も日本語が手助けしてくれる。
日本語は、ものを考える時、こんな便利な言語は他になく1+1は3にも4にも膨らんで、きっと日本語のありがたみを感じるはず。
時々聞く話で、先生が「氷がとけたら何になりますか。」と尋ねたら、ある子が「春になります。」と答えたという。この子は理科の質問に国語で答えている。この話は日本人の好きな話で、しかも思考力の本質に迫っている。日本人は日本語で考えている。
本来[7]という数字には7番目くらいの意味しかない。数式は、そんな数字と記号だけでは意味が分からない。
江戸時代時代に庶民が高等数学を解いていたという。
日本で生まれて日本で進化した数学は日本人の生活感や現実感そして日本語で考えられた数学はマニュアル化しても、そこから連想が働く数学だったかも知れない。
野球も外国生まれのスポーツだけど日本で進化した野球理論はタイミングの合わせ方のように感覚的で教えることが困難な技術でも、ちゃんと言葉で説明して伝承できるものに進化している。
マニュアル化した数学は、数学者の知恵の塊かもしれない。
しかしマニュアルは伝承されても、数学者の数式を考える思考力は伝承されていない。
しかし!江戸時代の庶民には数学のテストはなく「氷が溶けたら春になります」というように、数学を国語で答えていたのかも知れない。
そして日本語で教える数学なら、数式を考える力を伝承することができるのかも知れない。