『ローマの休日』の解説を聞いて、この映画にも不思議な現実感がある理由が、やっと理解できた!
人が頭の中で何かをイメージし始める時!何かを思い付く時!ひらめく時!それは別の記憶とつながった時かも知れない。
『ローマの休日』を見てシンデレラ物語をイメージしている観客に対し、絶望感や怒りから噴出してくる言葉で脚本を書いているトランボを対比すると面白い。
オードリーヘップバーンに魅せられた観客に対して、トランボは敗北感や怒りから思い描くイメージ力には主体的な[意思]がある。
『ローマの休日』を見た人の他力のイメージ力と、脚本を書いたトランボの自力のイメージ力は、まったく別物!
芸術は、それを鑑賞する人の高揚感に意味があって、画家や小説家の追い詰められた心理には生々しさから現実感が生まれている。
音楽家や画家は、そんなの心理状態を表現しているに過ぎない。
『ローマの休日』でオードリーヘップバーンを見る人にとっては[夢]でも、脚本家のトランボにとっては絶望感のような負のエネルギー!
人には、何かひらめく時!何かをイメージしている時があって!
人工知能が[ひらめき]を持つためには挫折感や敗北感のような感情でプログラムが壊れたり!怒りで言葉が噴出してくる負のエネルギーが必要なのかも知れない。
満たされた幸福感には現状維持を望む気持ちはあっても、何かひらめく!何かをイメージする!そんな切実な気持ちが足りない。
ただ、『ローマの休日』を見る人には、トランボのような負のエネルギーはなくてもいいのかも知れない。
オードリーヘップバーンを見て、シンデレラ物語を想像するイメージ力につながれば、それで良いのかも知れない。
夢には実体感がなく、他人には分からない。
『パピオン』のような破滅的な[破壊]があって、影響された人の中でイメージの[創造]につながっている。
やはり数式の意味を理解するためには直接数学者の話を聞いて、数学者の心理にあおられて、その先をイメージし始める。
そして自力でイメージした部分だけ、理解できるのかも知れない。
才能の有る画家は少数でも、それを鑑賞する多数の人の中で芸術になっている。
数式を理解して使いこなすためには、才能のある少数の数学者がいれば良いのかも知れない。
画家の[破壊]があって、鑑賞する人の中に[創造]があるように!
たとえ絵が描けなくても鑑賞する多くの人の中で芸術になっている。
『ローマの休日』には不思議な現実感があって!
映画を見た人に何かをイメージさせるのは、トランボの怒りや絶望感のような負のエネルギーかも知れない。