ニュートンもルイス・キャロルそして監督も、カナシミの感情で考え始めている。
彼らには、答えを探し続ける個人的な事情があって、それは正解とは正反対な方向だったのかも知れない
数学はアニメにした方が効果的なのかも知れない。
たしかにアニメにすることで空想は膨らんでいくけど、正解からは遠のいてしまう。
空想は正解を求めないことで有り得て、正解を求めると空想は有り得ない。
何か疑問を感じると、また新しい説明が必要になる。
人の思考力は益々混沌として、答えに近づくのではなく、答えからは遠ざかってしまう。
常識に囚われないということは、常識を壊している。
自ら答えを壊して、益々分からなくなってしまう。
ベートーベンは耳が聞こえなくなって、もう想像するしかない!
耳が聞こえなくなって固定概念も消え自由になって、彼の想像は楽器の音色を超えている。
ベートーベンは楽器を弾いても音がしない!音の出ない楽器を弾きながら頭の中で音をイメージしている。
しかし!
音を失くしたベートーベンのイメージ力はオーケストラの演奏できる限界を超えている。
正解にこだわって、数学をマニュアル化すると、正解を即答するけど数式の意味が分からない本末転倒な教育になってしまう。
本来教科書は日常性を超えて、空想は広がっている。
正解という絞り込んだ見方だけでは、空想や問題提起が見えてこない。
考える動機が見えてこない。
江戸時代の和算は旦那衆が、問題作りから答えまで創作しているみたいで、[1]から考えて、自己完結型の思考をしている。
日本の数学教育は、答えしか見ていない。最後だけで最初がない!
創造は破壊から始まる。
問題提起能力や空想力は、常識を超えているけど、しかしそれらは正解からは遠のいてしまう。
カナシミは個人的な事情で!
カナシミの感情は、そこから遠ざかって行こうとしている。
そして新しい答えを創作している。
人は否定で考えている。
数式をアニメ化すると、正解からは遠のいてしまう。
しかし!日本人は人の気持ちを読もうとするので、数学をアニメにして擬人化することで理解力は増すような気がする。
人はカナシミの感情という、まったく個人的な事情で答えを探している!
数式は元々個人的なもので、アニメにして数学者のカナシミの感情を伝える。
一度正解を忘れて!
少し遠回りした方が日本人にとって数式の意味は分かりやすくなるのかもしれない。