日本人にテストは必要ない 13 | エイジのブログ

エイジのブログ

ブログの説明を入力します。

人は、ものを正確に見ているから理解できない。

蓄音機を見てレコードプレイヤーをイメージして進化させることができる。

正確に見ている訳ではなく、別のものを思い描いている。


ジュジアーロが日本刀は最高の工芸品と絶賛していたけど、日本刀の工芸品としての価値は日本人の集中力と、その持続性から生まれてくる。

繰り返し!繰り返し!鍛錬して、そのつど変化して偶然好ましいものが生まれると、そんな発見が少しずつ積み重なって完成度をあげている。

集中力の持続性という、模範解答を即答するテストでは分からない資質から日本刀という工芸品は生まれている。

欧米人には、そんな根気はない。


今日の野球界のキーワードは間(ま)かも知れない。

「間」は元々何もしてない!動いてもいない!

しかし前足を上げて力をためたり、「間」でボールを引き付けたり、タイミングを合わせたり、前足を上げて開かないように踏み込んだり!こんなことが出来ると思えば出来るという禅問答のような話!

「間」の概念は日本人にしか理解できない。

そして、日本人は「間」や日本画の余白という、何もないものに不思議なリアリティーを感じている。


一般的に才能とは[個人差]があって他人を出し抜いているものをいう。


しかし日本人は、「間」や日本画の余白という、何もない空白に価値を感じている。

禅問答のような価値観!

それは形すらなく、正確さを重要視しない不思議な価値観!

まるで、ものの本質を見ようとする哲学的な概念!

そして言わなくても通じる会話は、個人差のない一体感や均一性から生まれている。


欧米人の能力の概念とは根本的に違う。


桑田真澄のようにボールを長く持って投げる投手に、打者は何処で力を集中すればいいのか分からずタイミングが合わない。

「どうすれば、タイミングを合わすことができるんだ?」そんな答えを探している時、イチローの振り子打法を見てると・・・。踏み込みに「ま」がある「これは!答えじゃないのか。」そんな気がしてくると一気に知っている知識を総動員して理論は出来上がる。

答えがイメージできれば、後はそれを正当化するだけ!

ジグソーパズルも完成写真さえあれば、後はピースを組み合わせて完成!

答えさえイメージできれば、イチローはそんな理解のされ方をしていく。

それは正確さではなく、思いたいように思って!考えたいように考えて!そう理解されていく。


理解できないのは、ジグソーパズルの完成写真がイメージできていないから、知識というピースを見てもそれが何だか分からない。


しかし日本人は「ま」や日本画の余白という、元々完成写真のないものに価値を感じている。

本音を言わない話し相手の気持ちを[さっして]理解したり。

「ま」や余白という答えのないものを見て、答えを創造している。

日本人は、新しく創造する理解力が優れている。


人は、ものを正確に見ているから理解できない。

蓄音機を見てレコードプレイヤーをイメージして進化させることができる。

それを進化させることで説明できるものになっていく。

人の理解力は、正確に見ている訳ではなく、進化したものを思い描いている。

それは連想が働いたり。

他人の[ひらめき]のような一瞬の変化に反応している。


しかし!そんな変化して別のものになると、テストでは×がついてしまう。


しかもテストで生徒を序列化して一体感を失くすと、日本人はそんな能力も失くしてしまう。


個人差が広がってしまうテストは無意味。