2014年1月22日(水)
北山修 2
日本人は社会の中で孤立化することが怖くて「皆と同じ団体行動がとれているのか?」と組織の側からの見方をしている。
日本の安全は、個人が社会のルールに従うことで維持できている。
学校の管理主義も、組織の側からの都合にすぎない。
日本人は、個人よりも社会中心の考え方をしている。
「教科書は正しい」という教え方は、教科書の側から見た一方方向の見方をしている。
どうしても「教科書を一度否定してみなさい。」という教え方ができない。
しかし教科書で学ぶ、生徒の側から見れば事情は違ってくる。
学者は実体のないものを空想していたり!迷っていたり!悩んでいたり!失敗をしたり!
人の想像や発見は、まだ形としては実体化していない。
いろんな考え方をしてみる。
案の定99%は見当外れで役には立たない。
しかしいろんな考え方をして、その中から1%でも役に立つ発想が生まれてくれば大成功!
日本の大学生人口は何十万人もいるはず、その中から一人でも有名な学者が育てば大成功!
全員が学者になる必要性はなく、ほとんどの生徒が結果を出せなくても何の問題もない。
むしろハードルを下げて!
1%の成功率なら大成功!
一つの役の立つ発想は、100の新しい発想の中から偶然生まれてくる。
10000の新しい発想からなら、もっと確率は上がる。
正解が一つしかないテストからは何も生まれてはこない。
才能の生まれる国は次々に生まれてくるけど、才能の生まれない国からは、まったくと言ってもいいほで生まれてこない。
北山修のハッキリ言い切ってしまう話し方には小気味よさを感じる。
おそらく彼は子供の頃からずっと優等生なんだろう。
模範解答を答える優等生は教師にとって好ましい生徒なのかもしれない。
そして教師は、教科書通り答える生徒を育てている。
しかもテストには共通の正解があって、それは生徒に人と違う答えを求めてはいない。
教科書を絶対視する教育をしている。
しかし、そこから学者は生まれてはこない。
生徒の目は模範解答にピントを合わせて、模範解答を即答する生徒が優等生になっていく。
まず言えることは教える側に「教科書を一度否定してみなさい。」という教え方ができない。創造は破壊から始まる。「古い科学を暗記して、どうしようというんだ!」
北山修のハッキリと言い切ってしまう!迷いがない!そんな話し方を聞いて「おそらく彼は教科書を疑ったことはないんだろうなぁ~。」と思う。