東大からは才能は育たない 7 | エイジのブログ

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2013年2月13日(水)

子供の頃、よく読んだ漫画やおとぎ話にはナンセンスな面白さがあって、人を空想の世界に引き込んでいく。

そして[あいまい]だけど、それだけ自由度の高い日本語にも助けられて、いろんな展開をする。

変化する幅の広さに日本人の可能性があって、むしろテストのように変化することに価値を認めない教育に日本的ではない違和感を感じる。


教科書に載っている学者の思考は常識や科学の境界線をあっさりと超えている。

土俵の外に才能がいて、土俵の中には才能なんかいない!

むしろ常識や科学の境界性を越えられないでいる人間に限界を感じる。


日本人には一体感があって、最初の空想という広がりから、絞り込んでいく結論まで、一人一人はわずかな知恵しかなくても、皆から知恵を集めて、皆で積み木をしながら考える。

それにダイヤモンドのように単なる炭素の塊でも「きれい!」と感じる女性が多数派になると需要と供給のバランスが崩れて価格は上昇する。

日本人は周囲の動きに従ってそれについていく、行動や価値観さえ周囲に逆らえず、それに従う従属性から多数派の意見はすぐに生まれて、需要と供給のバランスが崩れやすく価値は上昇しやすい。

新しい価値が生まれやすい。

そこに特別な才能がなくても協調しながら創造できる日本人の強みがある。


しかし、現実はテストを繰り返して、そこには答えが一つしかなく選択肢はなく、そして新しい価値が生まれてくることもない。


江戸時代は封建的な価値観や倫理観しかなく、一つしか答えがないと人は無批判に受け入れてしまう。

当時の日本人は封建的な倫理観に疑問を感じることができず、判断力や思考力はマヒしている。

狭い土俵の中にしか価値を感じられなくなってしまう。

思考停止状態になってしまう。


しかし明治維新は旧体制が崩壊して価値観が逆転して、武士達は土俵の外から日本を見ることになる。

NHKのTVを見ながら感じるのは、会津の白虎隊の本当の悲劇は、土俵の中しか知らず人生を終えたことかも知れない。


「土俵の外は負けではないよ!」


しかし、今日の日本の教育もまったく同じ!

土俵の外に才能がいて、土俵の中には才能なんかいない!