「王貞治も落合博満も形は一緒!」そんな風に見えてくれば、コツは会得できるのかも知れない。
二人の、あの形は生まれてきた経緯の違いから、違う形になっている。
しかし基本的な考え方は一緒で、それらは進化すれば同じ形になっていくのかも知れない。
二人の形を見れば全く違う形に見えるけど、進化した未来の形は同じなのかも知れない。
昔から「右に打て、インサイドアウト、右手をかぶせる。」これらの言い方は違う話をしているようで、その先をイメージすれば前で大回りしている様子が想像できる。その先をイメージした時、これら違う言い方は同じことを言っているように聞こえる。
一度過去にさかのぼって「一本足打法は日本刀の振り方から生まれてきた!」という仮説を立てて、そんな振り方をしてみればヒントはいくらでも見つかる。
ヒントが見つかれば「だったら、もっと良いやり方がある!」とその先の進化した未来をイメージすることができる。
コンピューターにはできない人の理解力は、それが生まれてきた経緯からヒントをみつけたり、そこから一気に未来に飛躍して進化した形をイメージできる点にある。
日本の教育では「教科書は正しい!」「正確に暗記しなさい!」と指導して現状維持はバカげている。
そうではなく!時計の針を戻したり、先に進めることで違う姿が見えてくるはず。
むしろ進化した形をイメージした時「王貞治も落合博満も形は一緒!」そんな風に思えてくれば、両者から良い所取りしてコツは会得できるのかも知れない。
日本の教育の現状維持はバカげている。
今彼女は批判されている。
本阿弥 光悦の荒々しく未完成なままの茶碗やピカソの絵は益々抽象的になっている。
もう完成させることに意味を感じなくなっている。
彼女は光悦の茶碗を見て、何を感じるんだろう?
特に日本画には空白が多く、こんな空白の多い絵は欧米では見られない。
やはり欧米人には、きちんと説明しないと伝わらない。
発信する説明力を問われている、そして絞り込んでいく明確な結論を必要としている。
しかし欧米人に、広がっていく!結論のない「ひらめき」を伝えることは難しい!広がっていく空想に誘うことも難しい!
日本の文化は日本画や俳句のように説明のないものが多い。
しかし、本阿弥 光悦の茶碗は荒々しく未完成で、その先の空想を誘っている。
未完成で抽象的な芸術作品の前に立ち止まって、それを鑑賞している人は自分の中にある美意識を見ている。
自分自身の美意識が引き出されてくる。
王貞治を見て、自分の望む形をイメージしながら見ると、そう見える。
それは一本足打法の進化形を見ている。
彼女は光悦の茶碗を見て、何を感じるんだろう?
