王貞治
人の視力には知能があって、見てるものの意味が理解出来る。
しかし意味を変えると違うものが見えてくる。
人は、他人の話に影響されて知りもしない人の悪口を言っている。もしも同じ人に対して「好き!」と言う話を聞かされると正反対に好感をもつかもしれない。
違う先入観で見ると、同じ人でも違う印象をもってしまう。
先入観という色眼鏡で人を見ている。
一本足打法に対し何の理論もなく見ても、おそらく何も気づかない。
「グリップを引き抜くように振っているから、バットは後ろで小回りしている」という説明を聞いて始めてそのように動いている様子が認識できる。
人の視力には知能があって、その意味が理解出来るけど、しかしそれが何なのか意味がインプットされていないと、見えているはずなのに気付かない!認識できない!映像に意味付けがされて始めて人にはそれが見えるようになる。
そして、その意味付けは変えられるので、自分が思いたいように先入観を変えて見れば、違うものが見えてくる。
王監督は「打つポイントはピッチャー寄り!」と言っていたけど、それを「ポイントを線で捉える!」と言い換えた方が発想は広がっていく。それは「ポイントは捕手寄りから投手寄りまで前後に幅があるので、外角の流し打ちから内角を引っ張る形まで、バットを振る形のなかで両方に対応できる!」「バットを左方向に振ることとグリップを引き抜く振り方の合わせ技でバットはフェアーグランドを向き続けるのでポイントを投手寄りにしてもファールにならない、そして90度以上の体の回転が可能になって足腰の力を使い切ることができる。」
やはり「ポイントは投手寄り。」ではそれ以上何も想像できない。それよりも「ポイントを線で捉える。」という言い方の方が発想は広がっていく。
そしてそれは日本刀の振り方で出来る。
理解するためには、それが進化して完成度が上がれば説明できるものになるし、もう一つの方法は人の視力の知能を利用して、見ているものに新しく意味付けをすることで違うものを想像し始める。人の視力には知能があって見ているものの意味が理解できる。そんなところにも、人の創造的なイメージ力がある。
いろんな意味づけをして見れば一本足打法から、いろんなものが見えてくる。
一本足打法を正確に見ても何も見えてこない。
そうではなく、自分が理想とするホ-ムランを打つ形をイメージして見ると、それが見えてくるかも知れない。
ジグソーパズルは完成した写真を見ながらピースを組み合わせることで完成させることができる。
日本語のあいまいさはピースが都合よく変化して違う絵を完成させることができる。
日本語のあいまいさで、新しい物語が創作できる。
人は先入観で、ゆがんだ見方をしてしまう。しかしそれは偏見にもなれば学習能力にもなる。