noteに引っ越そうかと思っているので、試してみます。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
チャイコフスキーもラフマニノフも祖国ロシアから「庶民レベルの表面的な美意識に迎合している。」と批判されている。
自動車のデザイナーが「後、一筆は表現しない、見る人に委ねる。」と言っていたけど、見てる人の美意識を目覚めさせて「 」余白に、見てる人は自分の美意識を付け足して見ている。
前者は庶民レベルな美意識と批判して、後者は見る人の美意識に期待している。
『古池や蛙飛び込む水の音』
芭蕉は、ありふれた言葉で表現している。
「きっと分かってくれる。」
「信じてる。」
というメッセージが伝わって、読者の自尊心を、くすぐると!
その通り。
読者は、この句に最高の評価を与えて芭蕉の期待に答えている。
芭蕉は後者の方で。
しかし「古池」や「蛙」には特別の意味は無いのかも知れない。
「古池」や「蛙」が化学反応を起こしている。
脳が覚醒している。
「どうして、人はオレオレ詐欺に騙されるんですか?」とチャットGPTに聞くと。
オレオレ詐欺に騙される理由は、詐欺師が被害者の感情や信頼を巧みに操るためです。
という常識的な答えだったけど・・・。「それは、どうなんだろう?」
『クリミナルマインド』で「二人いると、どちらかが主導権をにぎって、もう一人は、それに従うんだ。」というセリフがあったけど、たしかに思い当たる。
群れるDNAが、そうさせるのかも知れない。
無批判に従うのは主体性がなく、自分で判断できないというよりも、群れに従うという判断をしている。
特に日本人は、自分だけ置いていかれるのが怖くて、皆に従うという判断を優先している。
それは思考停止じゃなく、むしろ!脳は覚醒しているのかも知れない。
群れる動物は一匹が警戒音を発すると、群れは、一斉に巣穴の逃げ込んでしまう。
「自分で主体的に判断するよりも、従うことを優先するのは、思考停止じゃなく、脳は覚醒してるんじゃないの?」
オレオレ詐欺に騙されるのは、自分自身の主体的な判断が、二番目に降格している。
従うことを優先している。
「これは優先順位が逆転しただけで、脳は、ちゃんと機能してるんじゃないの?」
一本足打法は[プランB]として進化している。
変な練習がヒントになって、組み立て直して、そこから進化は可能になっている。
正常進化ではない。
これは生成AIが苦手な学習方法かも知れない。
イノベーションは技術革新で作り直している。
そして、そんな奇妙な理解や違うものに変化していく様子に、ついていくのも必要な学習能力かも知れない。
オレオレ詐欺に騙されるニュースを見ながら「馬鹿なヤツだなぁ。」とは言いきれないものを感じる。
生成AIが進化すると、正常進化ではなく、イレギュラーバウンドして、それに、ついていく日本人の組み合わせにイノベーションを感じる。
オレオレ詐欺のニュースを見ながら。もしかして!
思考停止じゃなく、脳は覚醒しているのかもしれない。
無批判に従うのは主体性がなく、自分で判断できないというよりも、群れに従うという判断をしている。
慌てて!
群に、ついていこうとして、脳はフルスロットル状態で。
それは群れるDNAに起因している。
判断力は、むしろ少しクールダウンすれば回復するのかも知れない。
群れるDNAには「皆、もう出発してるよ。」と言えば良い。
日本人は慌ててついていく。
芭蕉の俳句を読んだ時のように「古池」や「蛙」には、たいした意味はないけど、覚醒する。
「うん?」
「なんだ?」
それが日本人の学習能力のスイッチかも知れない。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
チャイコフスキーもラフマニノフも祖国ロシアから「庶民レベルの表面的な美意識に迎合している。」と批判されている。
自動車のデザイナーが「後、一筆は表現しない、見る人に委ねる。」と言っていたけど、見てる人の美意識を目覚めさせて「 」余白に、見てる人は自分の美意識を付け足して見ている。
もしかして!
チャイコフスキーは、その最後の一筆を描こうとしているのかも知れない。
欧米人は結論から話始める。
チャイコフスキーには漠然とした美意識があって・・・。
それを現実化しようとしている。
しかし!
楽器やオーケストラには限界があって、バイオリンはバイオリンの音しかしない。
ピアノはピアノの音しかしない。
バイオリンの音色だけではイメージを表現しきれない。
やはり限界がある。
欧米人には結論が必要で、結論から話始める。
日本では野球解説者が「このピッチャーは球持ちが良い。」と言ってる。
「それが、どうして打てないのか?」
どうすれば、そんな投げ方が出来るのか・・・。
何も分からない。
日本人には、そんな結論のハッキリしない話でも・・・。
そんな結論の無い話でも、球持ちが良いと打てないのか‼と伝わって、それが考える共通の基盤になっていく。
ヒントも共有できて、皆で同じものを積み重ねながら理解している。
車のデザイナーの言う「最後の一筆は描かない。」
見てる人は自分の美意識を見ている。
ルノアールの絵は、側でみると気持ち悪い。
ルノアールは自分の絵を美しく完成させる気はないのか?
日本人には最後の一筆は無くても問題ないけど。
欧米人には結論が必要で、結論から話始める。
ルノアールが批判されたのは、欧米人は写実的で美しい完成品を求めている。
欧米人には未完成な絵でしかないのかも知れない。
どうして画家は未完成な絵を描くんだろう?
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
『古池や蛙飛び込む水の音』
芭蕉は、ありふれた言葉で表現している。
言葉数の少ない表現は・・・。
「きっと分かってくれる。」
読者の感性を信じて疑ってはいない。
日本の文化は「 」余白が多い。
それとは反対に!
欧米人には結論のない話は通じない。
チャイコフスキーは完成させたかったみたい。
しかし!
楽器やオーケストラには限界があって。
チャイコフスキーの能力の限界ではなく、楽器の限界で表現しきれない。
一本足打法も完成形として見ると、分からない。
知り得る知識を総動員してると・・・。ヒントは見つかって。
話を組み立て直すと、もう一本足打法ではなく、プランBに変化している。
さっして理解する日本人には、結論の無い話でもストレスは感じない。
違和感なく、さっして理解する。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながら、チャイコフスキーは、どんな美をイメージしてたんだろう?
『花のワルツ』を聴きながら、彼は表現しきれない、もどかしい思いを想像してると・・・。
一本足打法ではなく、プランBをイメージしていると、フッと気付く。
日本人には本音と建前があって、「YES」と言ってるけど「NOだな!」と、ちゃんと理解している。
日本人にとって、話し相手の気持にシンクロさせる方が重要で、言葉の意味は二番目でしかない。
チャイコフスキーの『花のワルツ』を聞きながらチャイコフスキーは、どんな「美」を表現したかったんだろう?
[イメージ]があったはず。
日本人はチャイコフスキーの表現しきれない、もどかしい思いを「 」として聴くと、プランBとして、自分の内にある美意識が聞こえてくるのかもしれない。