10年来読み続けている土井隆義の著作「友だち地獄」の一節にこんな下りがある
少し長くなるが下記に引用する
「言葉によって表現されたものは、それがどれほど強烈な内容だったとしても、別の言葉によって相対化されてしまう危険をつねに孕んでいる。しかし、言葉によって意味づけられる以前から存在する身体感覚は、そうした相対化の危険にさらされることがない。自らの身体感覚によって生きづらさに具体的な形を与え、また身体の傷によってその生きづらさを表現しようと試みるのは、言葉では語りえない絶対的なもののなかにこそ、純粋な真実が宿っていると彼女たち(注:リストカットを繰り返す少女たちを指す)が感じているからだろう。」
 
誰にでも人には見せていない秘めたキャラの一つや二つはあるものだ
あるいは複数のキャラを、相対する人物や当人が置かれたその場の状況によって使い分けることも、もはや一般的な処世術だろう
だがそのキャラが自らの身体的特徴に由来するものだとしたら、恐らくリアルな世界で発現する機会はまだまだ遠慮されて、発現を許される唯一の手段としての匿名を通じてのみ、社会との狭小な接点に身を委ね窮屈な思いをすることになる
 
実は自分も昔からそのような身体的特徴を自覚している一人だ
しかも嬉しくないことに、どちらかというとそれは「疾患」として長いこと付き合っている
一方でそれはコンプレックスの原因になるのと同時に、「相対化されない」生の実感の源泉の意味をも果たしている
だからそれをカミングアウトする時に、生の承認欲求を解放して自己満足でき、さらに意図せず晒された相手が、申し訳ない話だが困惑しながらこちらの立場を「承認」することで、結果ダブルで自分の立ち位置の確認をして気持ちがかなり軽くなるのだ
 
滅多にないが、これまで何度かその告白の機会に恵まれた
「そんなの、普通にあるよ」と言ってくれた相手との距離が少し近くなったような気がして、今週末もちょっとご機嫌だ