今年は戦後80年に当たるということで、いつもの年に増してテレビの戦争特集が多いように感じます。映画では「雪風」という戦艦の物語が8月15日に封切られるそうです。ついさっきたまたまテレビでその映画の特集(宣伝)番組を見ました。まあ史実にもとづいた実在の戦艦の物語ということで、できれば観てみたいなと思っています。この番組の中で海に投げ出された兵士を救助するシーンが何度も出てきました、そしてそれを観ながら亡き私の父親を思い出しながら、当時父もこんな経験をしたんだ、と父親との思い出がよみがえってきました。
私の父は30年ほど前に他界したのですが、生きていれば104歳くらいになります。終戦時には24歳前後だったわけですが、もちろん兵隊として戦争に行っています。ブログやSNSをやっている人で自分の親が兵隊として戦地で戦った経験があるという人はそう多くないと思います。私は70歳に手が届く中国地方のド田舎の農家の息子なんですが、子供のころから父親と一緒に農作業をしてきました。そんな中で父親が稀ではありますが戦争の話をする時がありました。断片的な話なのであまり詳しくは覚えていませんが、その中で記憶に残っていることをいくつか書いてみたいと思います。
24歳で終戦ということは、10代後半に徴兵されているとすれば7-8年から10年くらいは戦争にかかわっていたのだろうと思います。まずは旧満州に行き、その後台湾にもいたように聞いています。満州時代は馬に乗って偵察のような任務をしていたと言っていました。あまり満州時代の話はしませんでしたが、(汚い話ですいません)外で用を足すとき、冬の寒い時は地面からつららができると何度か聞かされました(真偽のほどは不明です)。台湾もいたという程度しか聞いていません。いずれにせよ20歳前後のことなので、それほど自分が主体で何か任務をこなすということはなかったのではないかと思います。
その後、台湾からビルマ戦線に送られることになったそうです。ところが幸か不幸か、その時に乗っていた船がバシー海峡(台湾とフィリピンの間)で米軍の攻撃に遭って沈没し、この時海を漂っていた父は僚船によって無事に救助されました。ここで冒頭に書いた海戦の救助シーンが私の頭でオーバーラップしてきました。聞いた話なので正確ではないのですが、外洋で海を漂っている遭難者が見つけてもらえる確率というのは非常に低いそうです。というのも波のうねりが数メートルもあり、いってみれば小山と小山の間を漂っている遭難者は目に入りにくいということらしいです。その前に自分の乗っていた船が沈むときにできる渦に巻き込まれる可能性も高いし、当然敵からの次の攻撃がいつ来るのかもわからない状況もあるでしょうし。
その後フィリピンに上陸して新たな隊を編成し、ビルマに行く代わりにフィリピン戦線に投入されたそうです。それが何年の話でどのくらいフィリピンで戦ったのかは定かではありませんが、フィリピンで終戦を迎えました。でも当時ジャングルの中で戦闘していて、戦争が終わったというのは信じていなかったそうです。ビラが撒かれたのは知っていたが敵の陽動作戦くらいにか思わず、そのまま数か月はヘビやカエルを食べながらジャングルを彷徨っていたそうです。そしてこの間にも日々戦友の数は減り、最終的には5人が生き残ったと聞かされています。夜寝るときには生きていた戦友が朝には息が切れていたということは日常だったと言っていました。幽霊やヒトダマというのは何度も見たとも聞かされました。この話は子供心に怖かったという記憶があります。
最終的にはジャングルの中でマラリヤで動けなくなっているところを米軍に捕まったそうです。その後1-2年フィリピンの捕虜収容所に収容された後に復員したと聞いています。父が何度も口にしていたのは「ワシの人生で一番楽だったのは捕虜収容所にいた時だ」という言葉です。よく話していたのは米軍の日系兵士と仲良くなって、いろいろとよくしてもらった話です。また食べるものも十分に与えられたし、重労働とかもなく毎日が楽しかったと言っていました。余談ですが捕虜時代に使っていたスプーンが実家に残っていましたが、なんとこれがステンレス製だったのに大人になって気が付きました。80年前でも捕虜にステンレス製の食器を使える国と戦争しても勝てませんよね、そりゃ。今でもステンレスは鉄よりはるかに高いですから。
もとは地域のそこそこの地主の三男として生まれ、正直戦前は貧乏とは無縁だったと思いますが、本来いくらかは分けてもらえたであろう山や農地は農地改革によって大半が小作のものとなっており、帰ってきたときにはほとんどもらえる土地は残っていませんでした。その後は実家の山を借りて炭を焼き、結婚してからは数頭の乳牛を育て苦労しながら3人の子供を育てましたが、多分60歳ごろまでは経済的な余裕がほとんどないままだったと思います。私も子供ながらに何か欲しいものを親にねだったという記憶はほとんどありません。牛の世話があるので仕方ないのですが、家族旅行などというものなんぞ経験どころか想像すらしたことがありません。
子供心に父がよくうなされていたのを覚えています。また山でマムシを殺すと必ず精が付くと言ってその場で腹を割いて肝を取り出してそのまま生で飲んでいました。ちなみにマムシは草刈りした草に紛れたり、人や牛を噛んでも困るので見つけたら必ず殺していました。多分人には言えない経験をしてきたであろうと、いまの大人になった私ならわかるのですが、子供の時には単純に怖かったり驚いたりするだけでした。わが子が小学生の中学年になったころ、そろそろ子どもと一緒に戦争の話を詳しく聞いておこうと思い始めたころ急死したため、結局その計画はかなわないままになりました。まあ戦争に始まり苦労の多かった人生ですが、ある意味強運の持ち主だと思います。まずは乗っていた船が沈んだにもかかわらず生還、次はビルマの代わりにフィリピンに送られた、そしてジャングルを彷徨いながらも生きて捕虜となった。これだけ死地をかいくぐって来たということはやはり運が強いのでしょうが、そのあとが決して運に恵まれた人生でなかったというのはちょっと残念です。でも生き残ってくれたおかげで今の私があるのですが、これもまた運に恵まれた人生なのかといえばどうなんでしょうね?