『第二の敗戦期』 | 洋風文芸館(旧時計台)”おにょにょの館”

洋風文芸館(旧時計台)”おにょにょの館”

大正時代に金沢市を見下ろす卯辰山の山麓に時計台が建築され、洋風文芸館として今に残っています。文芸館の管理人”おにょにょ”は映画や文学、ときに音楽をこよなく愛する奇妙な生き物です。このブログはその”おにょにょ”が愛する作品達を、備忘録として残したものです。

 吉本隆明著。

 批評は広範なテーマに及んでいる。言葉はわかりやすい。口述筆記かもしれない。直感的にテーマに切り込むところが痛快で、吉本隆明の魅力となっている。詩的な把握といいかえてもよい。文献を細かくたどったり、論旨を明確に段を重ねることはしない。しているのかもしれないが、少なくとも表にはださない。直感的に断定して、その到達点から派生する感情的な要素、主観的な要素を取り出そうとしている。

 シモーヌヴェイユの宗教的哲学に一章が割かれている。マルクス主義、日本の共産主義に対する批判や分析は、私の手にあまるので、割愛する。

 憲法第9条に対する吉本の二つの見解は興味深い。第一は、戦争という行為は普遍的に悪であるということ。第二は、私怨にもとづく戦闘行為を憲法第9条は規定していないということである。ようするに勝手に個人で判断してくださいという立場である。愛する人が殺されたらどうするか、その感情の処置を憲法は教えてはくれないのである。憲法が個人の立場を規定しないというのは、法学的に考えるとどういうことなのだろう。そのことにも興味が湧く。また、戦争に際して徹底して逃げるということもありだということだ。侵略されたら、国を放りだして逃げるわけである。愛国精神丸出しにして、人を戦地に向かわせるのではない。

 吉本は、このように個人と社会や国家との関係性を軸に批評をおこなう。共同幻想論が代表である。個人と社会をまったく別の存在として抽出して考察する手法は、批評を行う上でとても勉強になるものである。個人が多数集まったものが、社会となるわけではないというわけだ。

 私はかくの如く、吉本にまいっているわけだが、先年亡くなってしまったことが本当に悲しくてならない。生きておれば、聞いてみたいことがたくさんある。だが、聞くまい。金科玉条の如く押し戴くことは、もう、我々がやってはならぬことなのだ。