素直になること
素直になるのってほんとに難しいと思う。
何か言葉を発するときだったり、何か言われたときにとる態度だったり、
生活してて、見たり、聞いたり、話したりいろんな反応するときに、
ほんとに素直になることってできるのだろうか。
例えば、自分が褒められたときや、自分の弱みを指摘されたとき、
何にも隠さず、何の見栄も張らず、道理に従って、
客観的にみて真っ当な反応ができるだろうか。
そうすることが正しいということを言いたいのじゃなくて、
単純にそういうことができるかどうか疑問に思っただけ。
日本語は、英語より、様々な表現ができると思う。
特に微妙なニュアンスを表現する句は多いと思う。
よくいえば、繊細な表現、悪くいえば何いってるかわからない。
例えば、
『~らしいで。知らんけど。』とか
『~したとかしないとか。』とか
あといろいろあるけど思い出せない。
でも、普段からあいまいな表現ばかり使ってる気がする。
話を元に戻すと、
超素直になること=自分の本心=むき出しの自分
って、今まで一度でも知ることができたことってあるのか。
突き詰めて考えると自信がない。
将来の進む道を決めるとき、無意識に制限された中から選んでいないか。
それって、本当に本心から何の制限もなしに選んだ道なのか。
人それぞれ、可能不可能があるから制限の中から選ぶのは当たり前だと
思うかもしれないけど、
でもそうしたら自分は本当にどうしたかったかわからなくないか。
できるできないは別にして、本当の自分の意志を知りたいと思わない?
って思う。
自分のことなのに自分でもわからないって不思議だと思う。
世界で唯一自分にしかわからない自分の意志がわからないなんて。
不可能なことを希望すると、生きてて辛いから、自分はそれを希望してないことにしようって
自分で自分をごまかし(←悪い意味ではない)たことはないか。
僕は昔から素直でいようと心がけてきた。本当の自分を不明瞭にしないために。
将来の道を決めるときも、もし自分が何にでもなれるとしたら、
何になりたいかって考えて決めてきた。
長い間、心がけてきたけど、100%自分の本当に望むものをわかっているかと聞かれたら、
自信ない。どこで自分が、
自分の気づかないところで虚勢やごまかしをしてるか
わからないから。
これからも素直でいつづけるよう努力はしていくつもり。
何か言葉を発するときだったり、何か言われたときにとる態度だったり、
生活してて、見たり、聞いたり、話したりいろんな反応するときに、
ほんとに素直になることってできるのだろうか。
例えば、自分が褒められたときや、自分の弱みを指摘されたとき、
何にも隠さず、何の見栄も張らず、道理に従って、
客観的にみて真っ当な反応ができるだろうか。
そうすることが正しいということを言いたいのじゃなくて、
単純にそういうことができるかどうか疑問に思っただけ。
日本語は、英語より、様々な表現ができると思う。
特に微妙なニュアンスを表現する句は多いと思う。
よくいえば、繊細な表現、悪くいえば何いってるかわからない。
例えば、
『~らしいで。知らんけど。』とか
『~したとかしないとか。』とか
あといろいろあるけど思い出せない。
でも、普段からあいまいな表現ばかり使ってる気がする。
話を元に戻すと、
超素直になること=自分の本心=むき出しの自分
って、今まで一度でも知ることができたことってあるのか。
突き詰めて考えると自信がない。
将来の進む道を決めるとき、無意識に制限された中から選んでいないか。
それって、本当に本心から何の制限もなしに選んだ道なのか。
人それぞれ、可能不可能があるから制限の中から選ぶのは当たり前だと
思うかもしれないけど、
でもそうしたら自分は本当にどうしたかったかわからなくないか。
できるできないは別にして、本当の自分の意志を知りたいと思わない?
って思う。
自分のことなのに自分でもわからないって不思議だと思う。
世界で唯一自分にしかわからない自分の意志がわからないなんて。
不可能なことを希望すると、生きてて辛いから、自分はそれを希望してないことにしようって
自分で自分をごまかし(←悪い意味ではない)たことはないか。
僕は昔から素直でいようと心がけてきた。本当の自分を不明瞭にしないために。
将来の道を決めるときも、もし自分が何にでもなれるとしたら、
何になりたいかって考えて決めてきた。
長い間、心がけてきたけど、100%自分の本当に望むものをわかっているかと聞かれたら、
自信ない。どこで自分が、
自分の気づかないところで虚勢やごまかしをしてるか
わからないから。
これからも素直でいつづけるよう努力はしていくつもり。
言葉
言葉について思うことがある。
言葉はもちろん有限なもの。
数えればいつかは、数えきれてしまう。
でも言葉で表現しようとしている、気持ちや雰囲気は無限というか、
決して有限なものでは到底表しきれないと思う。
例えば、一直線の上に0から100まで数が等間隔に書いてあるとする。
自分の今の気持ちは66番だったとする。
だけど、言葉は有限だから、3個飛びとか5個飛びぐらいにしかない。
66をジャストで表現する言葉はまずない。
66に近い言葉を使って、なんとか相手に自分の気持ちを伝えようとする。
『いまは、63のような、68のような気持ちだね。』
みたいに。
でも、感情なんてすごく複雑だから、まず2次元なんかでは済まない。
例えば、3次元で考えると、(x,y,z)=(2,6,3)の感情を持っていたとする。
当然、それにバシッとくる言葉なんてない。
その近くの空間にある言葉を選んで説明するが、ジャストではない。
もちろん、人はいろんな複数の感情を同時に持っていて当然だし、その感情は、
刻々と変化(移動)する。また、互いに電荷みたいに影響しあったりもする。
そんなことまで、考えたらぜっっっったい表現できない。
そもそも三次元なんて単純な世界じゃないだろうし。
(a,b,c,d,e‥x,y,z‥)=(0,1,2,9,3,‥6,5,8,‥)みたいな。
でも、世の中、言葉はとっても重要。
なんでも言葉だ。
あいさつ、意見交換、テレビ、オバマさんの演説、コント・・
言葉の中で生きているといっても過言ではない。
でも実際、言葉の表現できる範囲なんて、ひろい宇宙に浮くチリくらいなものだ。
自分の考えや、人の考えなんて言葉なんかで正確(ジャスト)に表すのなんて無理。
全部、それっぽいこと、それに近いことでことを済ませてる。
でも、それで世の中成り立ってるし、
もし仮に奇跡的にジャストで相手の気持ちがわかったところで、
別にたいしたことはない気がする。
何が言いたいかっていうと、
言葉で表現されてる世界がすべてじゃないということ。
言葉尻とか、『あなた、こういったじゃない。』とか。
上に書いたように言葉は完璧ではない。
むしろ、不完全極まりない。
けんかでなんかむかつくこと言われたら、
『ああ、この人の言いたいことってこれっぽっちも表現できてないんだな。』
って思えれば、むかつかずに同情したくなる。
『わかる、わかる、おれも、自分の思ってること言葉で表現できないよ。』みたいに。
ならないかな。
エスペラント語ってどれくらい表現できるのだろう。
人工っていうのがすごいと思う。
形而上学的なものってあると思う。
たまたまいまの時代で脳みそが1.5kgあって、
考えられることなんて、
限りがある。
だからといって、何も考えなくなるのではなく、
1.5kgなりに精一杯考えるけど。
もし、2、3kgあったらまた考え方や言葉も変わってくるのかも。
言葉はもちろん有限なもの。
数えればいつかは、数えきれてしまう。
でも言葉で表現しようとしている、気持ちや雰囲気は無限というか、
決して有限なものでは到底表しきれないと思う。
例えば、一直線の上に0から100まで数が等間隔に書いてあるとする。
自分の今の気持ちは66番だったとする。
だけど、言葉は有限だから、3個飛びとか5個飛びぐらいにしかない。
66をジャストで表現する言葉はまずない。
66に近い言葉を使って、なんとか相手に自分の気持ちを伝えようとする。
『いまは、63のような、68のような気持ちだね。』
みたいに。
でも、感情なんてすごく複雑だから、まず2次元なんかでは済まない。
例えば、3次元で考えると、(x,y,z)=(2,6,3)の感情を持っていたとする。
当然、それにバシッとくる言葉なんてない。
その近くの空間にある言葉を選んで説明するが、ジャストではない。
もちろん、人はいろんな複数の感情を同時に持っていて当然だし、その感情は、
刻々と変化(移動)する。また、互いに電荷みたいに影響しあったりもする。
そんなことまで、考えたらぜっっっったい表現できない。
そもそも三次元なんて単純な世界じゃないだろうし。
(a,b,c,d,e‥x,y,z‥)=(0,1,2,9,3,‥6,5,8,‥)みたいな。
でも、世の中、言葉はとっても重要。
なんでも言葉だ。
あいさつ、意見交換、テレビ、オバマさんの演説、コント・・
言葉の中で生きているといっても過言ではない。
でも実際、言葉の表現できる範囲なんて、ひろい宇宙に浮くチリくらいなものだ。
自分の考えや、人の考えなんて言葉なんかで正確(ジャスト)に表すのなんて無理。
全部、それっぽいこと、それに近いことでことを済ませてる。
でも、それで世の中成り立ってるし、
もし仮に奇跡的にジャストで相手の気持ちがわかったところで、
別にたいしたことはない気がする。
何が言いたいかっていうと、
言葉で表現されてる世界がすべてじゃないということ。
言葉尻とか、『あなた、こういったじゃない。』とか。
上に書いたように言葉は完璧ではない。
むしろ、不完全極まりない。
けんかでなんかむかつくこと言われたら、
『ああ、この人の言いたいことってこれっぽっちも表現できてないんだな。』
って思えれば、むかつかずに同情したくなる。
『わかる、わかる、おれも、自分の思ってること言葉で表現できないよ。』みたいに。
ならないかな。
エスペラント語ってどれくらい表現できるのだろう。
人工っていうのがすごいと思う。
形而上学的なものってあると思う。
たまたまいまの時代で脳みそが1.5kgあって、
考えられることなんて、
限りがある。
だからといって、何も考えなくなるのではなく、
1.5kgなりに精一杯考えるけど。
もし、2、3kgあったらまた考え方や言葉も変わってくるのかも。
才能
才能について、思うことがあります。
才能ってものはほんとはないんじゃないかと思う。
才能は結果じゃないかと。
成功した人が、あとから才能があったことになってるんじゃないかと。
例えば、いろんな分野で活躍してる人。
この人たちは、もともと才能があったのか。それとも努力して、成功したのか、
あるいはその両方を持ち合わせたのか。
才能というものが世の中に存在しなかったとする。
そしたら、活躍している人(何を持って活躍とするかは置いといて、ただ漠然と)は
努力で成功(何を持って成功とするかは置いといて、ただ漠然と)したことになる。
ある人が、今後何かを成し遂げるなんて、誰にもわからない。
なにかすごいことをやりそうだな、って予想はできるけど、確信はできない。
だって、未来のことだから。
その人が何かを成し遂げたら、それはその人の努力だと思う。
その人がやりたいことがあって、意欲を持って取り組んだ結果だから。
どんなに才能(もし才能ってものが世の中にあったら)があっても、
何もしなければ何もならない。
誰でもいい。何かを成し遂げたら、その人は、今の世界で才能があると言われる。
もともとは、何でもいい。
小さい頃から、ピアノがうまい、何かがうまい、っていうのがあっても、
それは個人差だ。
人それぞれ、何かに関して、同じものなんてない。
大勢に絵を描かせれば、うまい人からそうでない人がいるなんて当たり前だ。
みんな違うんだから。
同じ努力をしてるのに、ある人は芽が出ず、ある人は成功したと言う人がいたとする。
同じ努力なんて世の中にあり得ない。
人それぞれ、
意欲が違う。
動機が違う。
努力あるいは意欲をなくして、何かをなしとげたひとがいるだろうか。
じゃあ、努力して、何も成し遂げられなかった人はたくさんいるのだろうか。
そもそも、成し遂げるとは。。。
野茂さんが100勝したとき、『通過点ですから』って言った。
成し遂げるという考え方も人それぞれ。
学生時代、WWDの編集長の山室さんの特別講義を聞いたことがある。
当時山室さんはファッション通信を手がけていらっしゃった。
僕はこう質問した。
『20代の頃、自分がそんなすごいことできるって確信してましたか?』
山室さんは『そんなこと、考えたこともない。』って。
僕はそこにはただ、意欲と努力があっただけだと思う。
自分が本当にやりたいことを一生懸命やる。ただそれだけだと思う。
才能があるとかないとか、関係ないと思う。
そもそも僕は才能なんてものは結果のことだと思ってるし。
小学校の頃サッカー漫画で
『強いものが勝つんじゃない。勝ったものが強いんだ。』って。
これを置き換えると。
『才能ある人が成功するんじゃない、成功した人が才能があるって言われるんだ。』って。
成功するまで、才能があるかどうかなんて言えない。
逆にどんな人だって、成功したら、才能があったことになる。
じゃあこれは。
『おいしいものがうまいって思えるんじゃない、うまいって思えるものがおいしいんだ。』
?????。
つまり、最初のおいしいものって言うのは、おいしいとされているが食べる前のもの。
食べてみないと、うまいかどうかわからない。
そのときの、出来だったり、温度だったり、雰囲気だったり、食べる人の心境だったり。
によって変わるかも。
逆に言うと、食べる前においしいものかそうでないかはどうでもいい。
食べた後、うまいって思えたら、それはおいしい。
立花ハジメさんが、携帯のコンテンツで何でもいいからって質問を募集したところ、
視聴者から、アーティストになるには、どうしたらいいか?と言った内容の質問が殺到したそう。
アーティストを目指す多くの人が、自分には才能があるのかどうか知りたい。
僕の考えでは、才能ってものは世の中に存在してないと思うので、ただ意欲と努力持って取り組むだけだと考える。
意欲と努力で変化が生まれる。その変化は、誰にも予想できない。
ただ、現状に満足したら、その時点で変化の可能性は0になる。
自分も一生現状に満足しないで、意欲と努力によって創造される変化を楽しみたい。
才能ってものはほんとはないんじゃないかと思う。
才能は結果じゃないかと。
成功した人が、あとから才能があったことになってるんじゃないかと。
例えば、いろんな分野で活躍してる人。
この人たちは、もともと才能があったのか。それとも努力して、成功したのか、
あるいはその両方を持ち合わせたのか。
才能というものが世の中に存在しなかったとする。
そしたら、活躍している人(何を持って活躍とするかは置いといて、ただ漠然と)は
努力で成功(何を持って成功とするかは置いといて、ただ漠然と)したことになる。
ある人が、今後何かを成し遂げるなんて、誰にもわからない。
なにかすごいことをやりそうだな、って予想はできるけど、確信はできない。
だって、未来のことだから。
その人が何かを成し遂げたら、それはその人の努力だと思う。
その人がやりたいことがあって、意欲を持って取り組んだ結果だから。
どんなに才能(もし才能ってものが世の中にあったら)があっても、
何もしなければ何もならない。
誰でもいい。何かを成し遂げたら、その人は、今の世界で才能があると言われる。
もともとは、何でもいい。
小さい頃から、ピアノがうまい、何かがうまい、っていうのがあっても、
それは個人差だ。
人それぞれ、何かに関して、同じものなんてない。
大勢に絵を描かせれば、うまい人からそうでない人がいるなんて当たり前だ。
みんな違うんだから。
同じ努力をしてるのに、ある人は芽が出ず、ある人は成功したと言う人がいたとする。
同じ努力なんて世の中にあり得ない。
人それぞれ、
意欲が違う。
動機が違う。
努力あるいは意欲をなくして、何かをなしとげたひとがいるだろうか。
じゃあ、努力して、何も成し遂げられなかった人はたくさんいるのだろうか。
そもそも、成し遂げるとは。。。
野茂さんが100勝したとき、『通過点ですから』って言った。
成し遂げるという考え方も人それぞれ。
学生時代、WWDの編集長の山室さんの特別講義を聞いたことがある。
当時山室さんはファッション通信を手がけていらっしゃった。
僕はこう質問した。
『20代の頃、自分がそんなすごいことできるって確信してましたか?』
山室さんは『そんなこと、考えたこともない。』って。
僕はそこにはただ、意欲と努力があっただけだと思う。
自分が本当にやりたいことを一生懸命やる。ただそれだけだと思う。
才能があるとかないとか、関係ないと思う。
そもそも僕は才能なんてものは結果のことだと思ってるし。
小学校の頃サッカー漫画で
『強いものが勝つんじゃない。勝ったものが強いんだ。』って。
これを置き換えると。
『才能ある人が成功するんじゃない、成功した人が才能があるって言われるんだ。』って。
成功するまで、才能があるかどうかなんて言えない。
逆にどんな人だって、成功したら、才能があったことになる。
じゃあこれは。
『おいしいものがうまいって思えるんじゃない、うまいって思えるものがおいしいんだ。』
?????。
つまり、最初のおいしいものって言うのは、おいしいとされているが食べる前のもの。
食べてみないと、うまいかどうかわからない。
そのときの、出来だったり、温度だったり、雰囲気だったり、食べる人の心境だったり。
によって変わるかも。
逆に言うと、食べる前においしいものかそうでないかはどうでもいい。
食べた後、うまいって思えたら、それはおいしい。
立花ハジメさんが、携帯のコンテンツで何でもいいからって質問を募集したところ、
視聴者から、アーティストになるには、どうしたらいいか?と言った内容の質問が殺到したそう。
アーティストを目指す多くの人が、自分には才能があるのかどうか知りたい。
僕の考えでは、才能ってものは世の中に存在してないと思うので、ただ意欲と努力持って取り組むだけだと考える。
意欲と努力で変化が生まれる。その変化は、誰にも予想できない。
ただ、現状に満足したら、その時点で変化の可能性は0になる。
自分も一生現状に満足しないで、意欲と努力によって創造される変化を楽しみたい。